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2023.01.08(残357日) 体罰について

2023.01.08(残357日)

 

 

  • 体罰賛成派であった私

 私はかつて体罰賛成派であった。理由は簡単、私も体罰によって育ってきたためである。体罰によって私の悪癖は確かに矯正されてきた、と思っていた。そして子供は口で言っても分からないところがある。故に私もまた、体罰は必要悪であると思っていたのだ。

 が、それは明らかに誤りであった。体罰で矯正されるものなどない。体罰は親の自己満足でしかないのだ。

 

  • 体罰とは親の自己満足である

 体罰は確かに、親にとって望ましからぬ行動を子供に慎ませる、という意味では有効な手段である。子供は否応なしに、物理的反射として、その行動を控えるようになるためである。

 そう。単に物理的反射でしかない。子供は「何故その行為が望ましくないのか」ということを理解することもないし、また理解する機会もない。その行為をすると叩かれる。そのことを思い出すので、反射的に控える。ただそれだけだ。それを忘れて仕舞えば、子供はまたその行為を繰り返すようになる。

 つまり体罰とは単に、その場しのぎの対応でしかない。体罰は子供の問題行動に対する根本的な解決と成り得ない。体罰による「矯正」など一時的なものである。子供にとって恒久的な教訓と成るはずもない。そもそも言葉でないのだから、教訓に出来るはずがないのだ。

 その意味で、体罰は親の自己満足である。自身の監督下にある期間においてのみ「望ましい」子供であれば良い。自身の手から離れたときのことなどどうでもいい。そういう態度の表れである。

 少なくとも結果としてはそのようになっている。親自身がどのように思っていようとも、体罰というのは親の自己満足であり、子供のことなど少しも考えていない最低の行為である。

 

  • 体罰は子供を「弱い」者にする

 さらに悪いことに、体罰は副産物をも子供にもたらす。それは恒久的に続く、親への無条件の恐怖心である。

 子供が大人より肉体的に弱い存在である以上、子供は体罰に抵抗できるはずもない。体罰は結局、強い大人、弱い子供、という力関係を明確なものとする。それも痛みを伴って。

 これが何を子供にもたらすか。恒久的に忘れることの出来ないトラウマ——親への恐怖心である。何に対する体罰であったかは忘れてしまうであろう。人間の記憶力はそこまで優れていない。が、体罰を受けた、という行為は痛みによって強く刻みつけられる。これは大人になっても拭えるものではなく、子供は親に対して、いつまで経っても恐れを抱き続ける。本能的に。

 成人してこちらが肉体的には強いにも関わらず、親が不機嫌そうにしていたら、途端に萎縮してしまう。自らを責めてしまう。身が勝手に動かなくなる。あるいは、成長した子供が親を徹底的に殴る。最悪の場合、親を殺す。すべて、恐れの表れである。親への恐れによって自身の「弱さ」を感じて怯えてしまうか、あるいは親への恐れを自身の「強さ」で塗り替えようとする。

 ただ一つ言えるのは、親を恐れている時点でその者は明らかに親よりも「弱い」存在である。恐れとは、恐れている対象に劣後するという感覚の具現化でしかないのだから。

 つまり体罰は子供を「弱い」者にしてしまうのだ。親と子という力関係が痛みによって確立することで、子供はいつまでも「弱い」存在であり続ける。それは大人になっても変わらない。体罰の内容を忘れても、痛みは決して忘れない。

 

  • 子供は他人にも「弱い」存在となる

 このような恐怖心を抱くのは親に限らない。他者においても同様である。必要以上に自責の念を抱くか、あるいは他者を必要以上に攻撃する。

 それも根本的には、親への恐怖によって感じた「弱さ」の発展形に他ならない。親への「弱さ」が、人間そのものにおける「弱さ」へと変貌を遂げてしまった。そして「弱い」者として生きるか、「弱さ」を否定するための攻撃性を手に入れるのだ。

 

 体罰は子供の矯正に何ら効果を発揮しないどころか、子供に対して恒久的に親への恐怖心を植え付け、子供自体も「弱い」存在に固定されてしまう。その場合、健全に生きることは難しい。多かれ少なかれ、歪を抱えたまま生きることとなる。

 つまり、体罰とは子供を歪ませる行為である。体罰を好む親はさぞかしマニアックな嗜好をお持ちなようだ。それ自体は否定できないが、子供にとってはとても迷惑である。やめてほしかった。本当に。