2023.01.09(残356日)
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『トゥモロー・モーニング』の感想
『トゥモロー・モーニング』という作品を先日観てきた。クソ映画であった。
歌ばかりで一向に話が進まないのはミュージカル映画であるので仕方ないとして、それを考慮したとしても、クソがクソを極めている。シナリオは平凡で退屈。十五分で終わりそうな内容を引き伸ばして二時間にしているので退屈が極まってもはや拷問。展開は単純かつ説明不足で意味不明。カメラワークすら歌唱の最中には同じ構図を何度も何度も使い回す。映画の醍醐味、映像美を殺しているようなものだ。私の育ちが良いためか、カメラワークを使い回す映画に遭遇したのは今回が初めてのことであった。
そして何より、結婚前夜と離婚前夜の登場人物の区別が出来ていない。十年の月日が流れているというのに、メイクや服装などがあまりに似通っていて、今はどちらの描写をしているのか直ぐに理解できない。狙ってそのような描写をしたのであれば救いようもあるが、そういう意図も感じられない。ただ制作者側の配慮不足であるとしか思えない。
最悪であった。あれがミュージカル映画の定石であると云うのであれば、私はミュージカル映画というジャンルそのものを嫌悪する。退屈で稚拙で真っ白な二時間であった。
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クソ映画からの学び:クソ作品にしないために
さて、このような映画にも学びはある。それは何か。クソ作品は序盤から最後までクソたっぷりであるということ。
今回のようなクソ映画というのは、大抵序盤で何か「危機感」のようなものを感じる。この映画は退屈な代物ではないか、という予感が、脳裏を掠めるのだ。そしてその予感が裏切られることを願って観賞を続けるのだが、残念なことに、例外なくその予感は覆されずに終わってしまう。クソな映画は、序盤からクソであり、最後までクソなのだ。
そしてこれは恐らく、映画に限ったことではない。小説や漫画、その他あらゆる作品において、クソなものは序盤からクソである。序盤からクソだと感じたら、途中で作品から離れるべきなのだ。
むしろこれは教訓ですらある。作品をクソにしないためには、序盤こそ注意しなければならない。以前、ある小説家が「一文目が作品の良し悪しを決定する」といった趣旨のことを述べていたが、それは確かなことであるかもしれない。
あと個人的に、恋愛劇や愛憎劇は映画館で観るべきでないとも思った。人間が話してばかりで狂ってしまうほどに退屈である。映画館で観るべきは、画面から一秒たりとも目を離せないような濃厚なもの、あるいは絵そのものが迫力を欲しているものに限る。