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2023.01.13(残352日) 「若さ」について

2023.01.13(残352日)

 

 

  • 「若さ」とは何か?

 若気の至り、という言葉があるように、我々は人生の局面として「若いとき」と「若からぬとき」というように分類しているようである。では「若さ」とは何か。若気の至りとは、一体どのようなものであるか。

 年齢、ではない。年齢が「若さ」の定義であるというならば、若気の至りもまた「〜歳までの意識、気概」と定義できるだろう。しかし現状、そのように定義されていない。では、「若さ」とは何か。

 同年代を観察していて思うに、それは自身に対する無根拠の自信であるように思う。厳密に言えば、自身が世界の中心であり、自身の存在や価値観を世界があまねく存じ上げている、というような思い上がりであろうか。とまれかくまれ、若者は自身に対して自惚れを覚えるものである。例えば、やたらと酒自慢をする。自身の将来が無制限に明るいと思い込み、職場での活躍や展望を熱弁する。夢をさも実現可能であるかのように語る。そして、どれも根拠を問い質せば口を噤んでしまう。自身が絶対的に酒の強い根拠も、将来が明るい根拠も、夢の実現する根拠もどこにも無いというのに、若者はそれをさも明示的なものとして語る。

 これが「若さ」である。裏を返せば、根拠を考えた時点で「若さ」は急速に失われる。例えば夢に実現の根拠を求めた時点で、その者は既に「若さ」を失っている。

 

  • 「若さ」の本質:経験不足

 ところで、「若さ」とは年齢ではない、と既に述べた。確かにそれは正しいが、「若さ」が年齢によって許容されている面も否めない。年齢が「若さ」を定義するのではなく、「若さ」が年齢によって許容されているのだ。

 この意味で、いつまでも無根拠に夢を語る人間は無責任であるとされる。例えば中年であるのに無根拠に自身が社会を変革できる、あるいは夢を実現できると確信しているものは、極めて痛々しいものであるとされる。

 そしてそれは正しい。「若さ」とは、経験不足から来る思慮の浅さに他ならない。長らく生きていて「若さ」から脱却できないのは、単にその者の努力不足であるとしか言いようがない。

 

  • なぜ中年の「若さ」は嗤われるのか?

 若年の者が「若さ」を湛えているのはやむを得ない。生存時間の絶対的に短い彼らは、経験も必然的に不足しがちになってしまう。大抵の人間は経験によってのみ学びを得るので、彼らの得る学びも絶対的に少ないものとなる。学びが無ければ、根拠を求めることも出来まい。故に若年の者が「若さ」のまま、無根拠に自信を持ってしまうのは必然のことである。ちなみに、早熟の者というのは、若くしてあまりに多くの受難を潜り抜けた者か、書物などによって経験を擬似的に味わった者か、そのいずれかに限られるように思われる。

 さて、中年でありながら「若い」者はどうであろうか。中年の者には絶対的に多くの時間が与えられている。多くの経験を獲得する猶予があった。それであるというのに、どうして成熟していないのだろう。どうして根拠を求めるための学びを得ていないのだろう。それほど長く生きていて、一体何をしていたのだろう。何もしていないのだろう。だから無根拠に夢を追い求めるのだ。中年でありながら「若い」者が侮蔑されるのは当然のことである。彼らは人生で、何も学びを得ていないのだから。恥を知れ。その無駄な生を私に分け与えてほしいものだ。

 

  • 「若さ」から抜け出せない世代

 余談だが、あくまで偏見として、「若さ」から脱却できない者は氷河期世代とバブル世代に多いような気がする。前者はそもそも経験の場を多く奪われてしまったがために学びを得ることもままならず、後者は単に学ぶということを放棄して成人以降を過ごしてきたので持っているものが何も無い。無論、その世代の属性が個々を決定するものではないが、あくまで全体的な傾向として、このようなものがあるとは感じている。

 いや、我々世代ももしかしたら、そうなってしまうかもしれない。我々世代の特徴として、思考そのものを放棄するというものが挙げられる。情報の氾濫に対する自己防衛として。情けないことだ、氾濫しているならいつまでも川辺に住まわず居を移せば良いだけなのに。