2023.01.19(残346日)
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『モリコーネ』の感想
先日は’ENNIO’という映画を観た。邦題は確か『モリコーネ 映画の愛した音楽家』である。邦題業界には、後ろにくだらない副題を付けなければならないという規則でもあるのだろうか。
それはさておき、正直私はエンリオ・モリコーネという音楽家のことを知らない。そのようなわけで、この映画に関しても「三時間に渡る知らない老人の自伝」ということの他に言いようがなく、感想を述べることすら出来ない。彼の職業や人生、そして映画の数々は興味深く見ていたものの、彼そのものに興味はない。
だが学びはあった。
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創作に対する仮説:執着は求められた
以前、私は「自己の投棄」こそ創作の要である、という仮説を提唱した。実践もしてみた。確かに、基礎的な部分においてはそれが必要不可欠なものであると思う。創作物が自身から離れたものである以上、表出の局面で必ず自分は作品から排除しなければならない。大まかに言えば「見ているものを記す」ということになるのだろうか。この意味で、名声の獲得を前提とした創作はむしろ害を為す。基礎を望んで腐敗させるようなものであるから。
しかしそれだけでは足らないことにも気づいた。自己の投棄というのは創作における基礎でしかない。その上に建つ何かが致命的に欠けている。では何が必要か。工夫か。知識か。それも正しかろう。しかし包括的なものではない。その微細な努力を包括的に表現するものは何か。
‘ENNIO’を見て気づいた。執着である。創作物に対する圧倒的な執着。それが工夫や知識を自ずと導く。そのような仮説を、また新たに産み落としたことになる。
では執着とは何か。残念ながら、言語化に成功していない。二酸化ケイ素を多く含むマグマで作品にまとわりつく、というイメージは出来ているのだが。言語化できていないものは理解したと言えない。これが今後の課題であるように思う。