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2023.01.27(残338日) 私の思想のスタンスについて

2023.01.27(残338日)

 

 

  • 私の思想のスタンスについて

 有り難いことに、このブログもコンスタントに閲覧されるようになってきた。何を目的とされているのかはいざ知らず、文章というのは概して読まれるために書かれているので、多少なりともお読みいただけているのであれば幸甚の限りである。

 ここで今一度、私のこのブログ、ひいては私の思想そのものに対するスタンスを述べておきたい。

 

  • スタンス①:無常は思想をも覆う

 基本的に、私の根底にある信条とは無常である。それは思想においても同様で、人間の思想は刻一刻と変化すると考える。

 例えば親に対する評価。幼子は親を高い確率で、殆ど100%に近い状態で、完全に肯定する。それは子が親以外の親、即ち育児形態を知らないからである。では成人したらどうだろうか。少なくとも殆どすべての人間が親を肯定することはないだろう。他者がどのような育児を経てきたか多く見聞きするし、社会的にどのような親が望ましいか教えられることすらあるだろう。一方で自身が子を持ったとき、また親への評価も変わることだろう。出産・育児の苦労を、身を以て体感することになるのだから。このように年齢を重ねるにつれ、親への評価というのは刻一刻と変化する。

 人間の思想もすべて同様である。知識や経験の蓄積によって思想は変わっていく。昨日は政治家を糾弾していたものが、今日は政治家を褒めそやしている。それは何ら不思議なことではない。

 つまり、思想は変化する。昨日言っていたことが今日異なっていたとしても、それは矛盾ではない。変化である。

 こうも言えよう。昨日のわたしと今日のわたしとは連続的でない。むしろ日々のわたしが「私」という総体を形成しているに過ぎない。この意味で、昨日のわたしと今日のわたしとの思想が異なっていたとしても、それは不自然なことではない。

 そもそも私が一貫して「私」である保証などどこにもない。睡眠を経て昨日のわたしは死んでいて、今日のわたしに生まれ変わっているのかもしれない。

 

  • スタンス②:人間とは合理性である

 一方で、私はもう一つ、信条を持つ。人間とは合理的でなければならない、というものである。

 人間は動物であり肉である。そして、人間に与えられた動物的特性とは、複雑な思考である。オオカミが優れた聴覚を持つように、ハイエナが徹底した女系社会を形成するように、ミツバチが厳格な役割分担に生きるように、人間は肥大化した脳による複雑な思考を生業とする。

 故に、人間として生を受けたものは——仮に人間として生きるのであれば——複雑な思考に人生を投じなければならない。それは即ち、合理性である。どのような局面においても人間は合理性によって事象をコントロールしなければならない。少なくとも人間において特徴的な活動——社会活動や思想構築——において、必ず合理的でなければならない。

 思想の局面でも同様である。思想は変化する。それは仕方がない。しかし、変化は合理的でなければならない。昨日はこの事実を知らなかったが、今日はこの事実を知った。これまで得た知識や経験を総合的に検討して、現状ではこの思想へと変更するのが適切であると考えた。このようでなければならない。

 

 抑圧の下で。