2023.02.04(残330日)
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平和を維持する協調外交?
平和こそ重要だ。故に協調外交を進めなければならない。このように主張する者が居る。
前者に疑う余地はない。平和を壊そうとする者は万死に値する。平和は何よりも重要かつ崇高なものである。これを疑う者は資本家だけだ。資本家に人間性は存在しない。
が、前者から後者は明らかに論理的に飛躍している。少なくとも、論理的な接続がみられない。何故か。
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国家とは群れである
そもそも国家とは何か。
国家とは群れである。群れる習性を持つ人間が、同時に併せ持つ複雑な思考という動物的特性を活用した結果、地球上類を見ないほど巨大に成長した群れ。それこそ国家である。それ以上でもそれ以下でもない。
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権力者とは残虐である
では、この群れを統制し駆り立てる存在は何か。それは政治家である。政治家とは国家という長大な群れのリーダー集団である。
そのリーダー集団の中でも、実権を握った者、即ち権力者こそ、最終的に群れの方向性を決定する。
そして実権を握るか否か決定するのは、基本的に実力である。血筋によって実権が決定する時代は終わった。いや、昔からそんな時代はない。いくら血筋が正しかろうとも、兄弟間、親族間、その中で最終的な権力者を決定するのは、結局、実力である。
現代において、その傾向はさらに強化されている。日本にせよロシアにせよ中国にせよ韓国にせよ、権謀術数、智謀に満ちた者が権力闘争——それこそ闘争である!——を勝ち抜いて実権を手にする。
つまり権力者というのは実力によって闘争を勝ち抜いた者のことを差す。この意味で、権力者は残虐である。残虐でなければならない。残虐でなければ、彼らは闘争を勝ち抜くことなど出来ない。いや、そもそも勝ち抜くことを考えすらしないだろう。権力者はその性質として、必ず残虐である。むしろ権力者こそ残虐とするべきである。
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国家とは残虐である
さて、権力者は国家という群れのリーダーであるので、必ず群れの進むべき道に影響を及ぼす。ではこのとき、国家はどのような方向性に定まるだろうか。
もちろん、残虐に。残虐そのものである権力者が群れの頂点であるのだから、その群れは当然、残虐性から逃れることなど出来ない。直接民主主義を採用でもしていない限り、群れの進むべき道は権力者の影響なしに決定されない。必ず権力者の意向が入る。そして権力者は残虐である。故に進むべき道も結果として残虐となる。
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平和の成立は協調外交によるものか?
この意味で、平和は人類不変の信条によって成立しているのではない。残虐な国家の残虐な打算の末に、平和は在る。
仮に現状で平和が保たれているとしても、それは残虐な思考——人道など一切考慮されていない、極めて冷酷な合理性に基づく国益の観点で、平和が有益であるから、に他ならない。国家とは基本的に残虐なので、国益上戦争が有利であるとすれば速やかに戦争へと傾く。そこには人道的価値観も普遍的な平和への欲求も一つもない。ただ、国益だけが絡んでくる。残虐な指導者によって導かれた群れの、残虐な利益が。
この意味で、協調外交は平和を保証しない。協調して戦争を回避し続けていたとしても、残虐な権力者によって導かれた群れはいつ戦争を求めるか分からない。協調外交こそ平和の要であると信ずる者はきっと、蛮勇に満ちたヒグマ*1を前にして丸腰で語らったとしても喰われない。そう思っているのだろう。
蛮勇のヒグマと権力者との間に何ら変わりはない。両者とも闘争を求めたのだから。