2023.02.10(残324日)
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文学は駆逐されるか?
文学は駆逐される。簡単に漫画や映像作品が制作できるようになった今、文学の価値は日に日に薄れている。やがて文学は娯楽としての価値を失うであろう。誰かが言っていたのを思い出す。私の妄想かも。
いずれにせよ、この暴論に対して私はこう言いたい。ある部分では正しく、ある部分では誤っている。
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文学の持つ意味
文学というのは如何なる意味を持つか。私は二つの観点から考えるべきであると思われる。
第一に、単なる戯画の代替品。今は昔、塗料や紙というのは極めて高価なものであった。このような状況で現在の景色や自身の中で湧き出たイメージを書き留めようとした場合、一体如何なる手段を用いるか。漫画や映画を制作するか。不可能だ。国家予算をも要するだろう。ここで、文字は頑張る。
つまり、連続したイメージの代用品として文字を用いている。これが戯画的娯楽としての文学である。
では、第二の意味は?
文字そのものである。文字というのは表面上、単なる記号でしか無い。絵や映画のようにイメージそのものを直接的に伝えることは出来ない。色や形が作者のイメージ通りに伝わることなど決して無い。文字が記号であるがために、その解釈は受け手に極めて強く依存する。
むしろこれが文学の意味である。解釈の幅が極めて広いからこそ、表現には奥行きがもたらされ、視界は虹色にも灰色にも飾られる。読者は単に作品を消費するに留まらず、むしろ作品を造る側に回る。作者の意図にかかわらず、読者の経験、知識、それらが大きく作用するのだ。
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文学を殺さぬには
では、文学は漫画や映像作品に代替されるか。
第一の意味においては、されるであろう。戯画的なものに関しては速やかに。時代の流れとして必要とされていない。個人的に、推理小説やSF、恋愛小説はそういう類のものではないのかな、と思っている。映画で良くない?
では、第二の意味では?
お分かりだろう。第二の意味が、文学の賜りし祝福である。
他の表現技法にも受け手の解釈の入る余地はある。が、他の表現技法というのはあまりに直接的である。もちろんそれはそれで素晴らしいし、文学にはこちらの意図が正しく伝わっているのか判然としない不安も常に付きまとうものの、少なくとも文学は漫画や映画によって代替されるものではない。
そして私は考える。文学を殺さぬ心というのは、第二の意味においてこそではないかと。
ちなみに文字は単に情報量を多く含むことが出来る、という点でも優れている。文字そのものが駆逐されることはないだろう。テレパシーでも開発されない限り。いや、テレパシーが開発されたとて、人間の脳は速やかに情報を吟味し構築し放出できるほど優れていない。