まどどブログ

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2023.02.18(残316日) 自殺と夢見る少年少女について

2023.02.18(残316日)

 

  • 自殺:人生における有効な手段

 私は自殺について、あくまで手段の一つとしては認められるものであると考えている。生とは我々個人の所有物に他ならない。それをどのように扱おうが彼の勝手である。耐え難く、かつその他に活路を見出だせないのであれば、究極の逃避として、無への回帰として、自殺は有効な手段として用いられる。

 それに、いずれ我々は死ぬ。いつ死ぬか、それが問題である。死からは動物である以上、決して逃れることが出来ない。そして自殺とは、死を前倒しする行為であり、それ以上でもそれ以下でもない。いずれ来る死を望んで受け入れる。それが自殺である。

 

  • 自殺の安全装置:あなたは過去の自分を納得させられますか?

 しかし、このように考えていると、なんとも自殺とは輝かしく人を魅せてしまう。苦痛からの逃避として、最も有効な手段であるから。とりわけ自立した生活を営まなければならない者にとって生とは苦であり、苦から逃れることを考えれば、生を無に帰す自殺は当然魅力的なものとして映る。

 ここで私は一つ考えた。自殺とは確かに魅力的な手段である。しかし使えるのは一回限り。文字通りの最終手段。いわば一発限りの拳銃のようなものである。では、安易に使用しないように、安全装置はどのように定めるべきか。

 過去の自分である。人間であれば誰しも、未来に無限の可能性を見ていた過去の自分が居たはずだ。幼少期からずっと生からの逃避を考えていたものは存在しない。生に何かしら期待を寄せていた自分が、過去のどこかの時点ではきっといる。その自分を説得できるかどうか。その過去の自分に、自殺を試みている今の自分の言い分を伝え、議論し、そして最終的に納得させられるかどうか。

 納得させられたのであれば、自殺は速やかに行われるべきである。しかしそうでないならば、自殺は見送るべきである。過去の自分も納得させられないまま死ぬなんて、過去の自分に対してあまりに無責任過ぎる。