まどどブログ

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2023.02.28(残306日) 私が書く理由について

2023.02.28(残306日)

 

 一昨日の記事の続きはまたあした。

 

 

  • 私はなぜ書くのか?

 私はなぜ書くのか?

 様々な理由があろうかと思う。そもそも私は昔から何かを記すことが好きだった。この、文字が綴られる感覚というものが好きなのかもしれない。あるいはゼロが、まっさらな紙面が意味あるものに変わっていく様が好きなのかも。あるいは脳にふと浮かんだものを忘れてしまいたくなくて書き記す。あるいは単にくだらないことをくだらないように残しておく。はたまた、怒りに任せて、その怒りを忘れてしまわぬうちに、糾弾すべく書き殴る。

 

 そして、その根底には何かがある。

 その根底には一体、何が眠っているのか?

 寂しさである。

 

  • 私は寂しいオオカミ

 私の弱々しい部分を吐露すれば、このようになる。

 私は昔から孤独を恐れていた。独りを好み、同時に独りは苦手である。人間と共に居れば疲れてしまうが、程なくして寂しくなってくる。昔からそうだった。

 が、幼い頃にはそのようなことを感じることもなかった。人間は否応なしに私の近くに居たし、皆愉快であった。愉快でない者は私の下から消え去った。このようなものであるから、私は寂しさを覚えることもなかったし、孤独を恐れる必要もなかった。彼らは自動的に——学校というシステムによるのだから文字通り自動的である——私の周囲に居たのだ。

 しかし今はどうか。友は居ない。私と友が相互に望まなければ会うことも叶わない。そして会ったとて、実際には会っていないに等しい。彼らの興味関心は既に、私のそれから遠く離れている。私が思うこと、考えること、悩むこと、それに彼らは興味を示さない。それ自体を憂うことはない。仕方ないのだ。大人になるとはそういうことなのだから。ただ事実として、私は孤独である。

 家族も同様。家族の興味関心もその実、私に無い。一般的に家族とは、悩み事を相談できる間柄であるらしいのだが、少なくとも私はそういうことを家族に殆どしない。家族が私に理解を示した試しは無い。ただ彼らは皆、自身の見ている世界をそのまま私に押し付ける。

 友人に限ったことでも、家族に限ったことでもない。人間とは元より、そういうものなのだ。人間とは限定的な合理性の下で生きている。私も例に漏れず。皆、他者のことを理解することなど無い。ただ、他者のことを分かったような気になっているだけ。大人になればなるほど、それは顕在化する。見ている世界がそれぞれ、もはや交わることのないほどに離れていくのだから。

 故に私が孤独から救われることはない。私は寂しいオオカミだ。

 

  • 私はなぜ眠ってもなお、書いてしまうのか?

 話題に戻ろう。私はなぜ書くのか?

 孤独を忘れるためだろう。寂しさから逃れるためだろう。畢竟、私は孤独が怖いのだ。孤独の中では生きていられない。しかし人間といくら交流したところで孤独は癒やされない。であれば、もはや孤独の解消を現実の外に見出すしかない。作品の中で、私は孤独を忘れられる。私は寂しくない。だから書くのだ。

 想像するだけでは意味がない。想像するだけでは、それが形にならない。茫乎たる霧そのものである。それでは孤独の解消になりえない。孤独を紛らわすには、形がなければ。

 私は今までずっと考えてきた。自分はなぜ書くのであろうか、と。そして怒りや快楽、使命感などあらゆる仮説を提唱してきた。しかしすべて否定された。眠りによって。睡眠はすべてを奪ってしまう。睡眠こそ幸せの究極体である。寝てればいいじゃん。そうやって今まで、創作の原動力は完全に否定された。それでも私は結局書いてしまう。その問題を解消できていなかった。

 これが答えだと思う。怒りや快楽は眠って仕舞えば忘れる。しかし寂しさだけは忘れない。寂しさだけは、寝ても覚めても常に厳然たる事実として、私の右に座している。