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2023.03.01(残305日) ミッションとしての生について③

2023.03.01(残305日)

 

 

 一昨々日の記事の続きを。

 

  • 一昨々日のおさらい

 一昨々日、生はミッションであり、そのミッションは二つの観点から決定されなければならない、とした。その二つの観点とは、ミッションに対する合理的根拠とミッションが達された際の具体的展望である。要は、以下の二点からミッションを見よ、ということである。

 なぜそれを目標に定めるのか、

 それを達成してどうするのか。

 

  • ミッション決定の具体的過程

 では早速、具体例を用いて生のミッションの決定過程を見ていこう。

 第一段階。ミッションを仮定する。直感的なもので構わない。何も最初から崇高なものである必要はない。誰しも、何かしらの欲求を抱いていることと思われる。お金持ちになりたい、だとか、家族が欲しい、だとか。何でも構わない。思いついたものを何となく据える。ここで仮定するミッションはあくまでたたき台に過ぎない。ここでは「お金持ちになりたい」としよう。

 第二段階。二つの観点から仮定したミッションに検討を加える。

 まず、合理的根拠。ここでは「お金持ちになりたい」であった。そもそも「お金持ち」とはどのように定義されるか。定義されたとして、なぜ「お金持ちになりたい」のか。色々なものを手に入れることが出来るから。ここで「色々なもの」とは何か。具体的に、どのようなものであるか。なぜ手に入れなければならないのか。このようにして、妥協すること無く、徹底的に自身のミッションに合理的根拠を求めていく。先人の研究を根拠に据えることができれば、なお良い。彼らの研究は客観的に評価されているので、自身のミッションにおいても援用しやすい。

 次に、具体的展望。お金持ちになったら、どうするのか。お金持ちになることが最終目的であるのか。あるいは、お金を用いて何か娯楽に投じるために、お金持ちになりたいのか。後者である場合、具体的にどのような状況を望むのか。あるいはどの程度まで娯楽を求めているのか。はたまた娯楽でも何でも無く、それ以外の何かを欲しているからお金持ちになりたいのか。このようにして、ミッションのその先まで見据えて、考える。無論、合理的根拠と重複する部分もあろうが、展望は展望という形で別個に考えるほうが望ましい。

 第三段階。第二段階を繰り返す。例えば、当初「お金持ちになりたい」であったのが、「私は幼少期に貧困を経験した。あのような世界には二度と戻りたくない。そこで、衣食住が事足りる程度の財を継続的に確保したい」となった。当然、これでは不十分である。なぜ貧困に戻りたくないのか、財を継続的に確保したところでどうするのか。などなど。これを再び考える。

 第四段階。論点が完全に解決したと思われた段階で、ミッションを標語として完成させる。

 このようにしてミッションは作られた。

 

  • なぜ二つの観点が必要か?

 そういえば、なぜ二つの観点が必要であるのか説明を忘れていた。それぞれの役割を説明しよう。

 第一の観点、合理的根拠は、いわば生の理由付けそのものである。なぜ自身がそれを欲するか。それを明らかにすることで、そのミッションは原動力を手に入れる。平たくいえば、納得して事を進められるのだ。例え挫折を味わった際にも、それが必要な挫折であるか否か、原点に立ち返って考えることが出来る。

 一方で第二の観点、具体的展望は、いわば生の継続性を担保するものである。散見されるのが、スポーツ選手が引退後、堕落した生活を送り人間として破綻してしまうという現象である。それは、彼らが「スポーツで活躍する」というミッションだけを見ていたため、その後のことをもはや無に等しく見做していたことが原因である。しかし彼らはスポーツ選手を引退しても生きている。源氏物語において夕霧が仰せであるように、死は強く望んだとてそう簡単にやってこない*1。ミッションのあとを十分に考えなければ、ミッションを終えた人生はそれこそ、死よりずっと悲惨なものとなってしまう。それを未然に防ぐための、あくまで担保として、具体的展望は求められる。

 

  • 余談

 ちなみに、これは私の破綻を元に作成したものである。私は第一の観点ばかり考えており、第二の観点を完全に失っていた。そして案の定、ミッションを達成した後、生は消えたのだ。

 他の人には同じ思いを決して味わってほしくない。ミッションなき生は絶望よりも重い。望みは遺物そのものとなるのだから。

*1:この意味で、私は自殺を「自死」と呼ぶべきではないと考える。自殺は言うまでもなく自然死ではない。自動的に訪れる死と異なり、自殺には人間の思考が介在している。故に——死者の尊厳を守るという観点からも——区別すべきである。これを「自死」などと呼ぶ人間は、明らかに無教養オナニー依存症患者であろう。哀れなことだ。