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2023.03.08(残298日) 「働きたくない」と作家というキャリアについて①

2023.03.08(残298日)

 

 このブログをサボっていたらとたんに執筆速度が落ちてしまった。矢張り、とにかく文字を短時間に多く書き連ねる、というのは執筆において良い訓練となるらしい。

 

 

  • 私はなぜ作家を望むか——現実的な観点において

 私は作家を望む。それは何故か。これについて、夢想家としてはもちろん、伝えたいことがあり、生におけるミッションの達成に作家という手段は最も有効であるためである。では、現実的な——つまり社会生活上の観点においてはどうか?

 それは方便である。働かないための方便として、作家という肩書き——厳密に言えば作家としての実績——は利用できる。

 

  • 前提:働きたくない

 前提として、私は働きたくない。どのような労働であっても従事したいと思わない。仮に作家であろうとそれは同じ。寸暇を惜しんで執筆に勤しむのは御免だ。そんな時間があったらベッドにインして寝なければならない。あるいは映画や本やオオカミと戯れなければならない。とにかく、労働に私の怠惰を制限されるのは御免だ。私は睡眠と余暇をこよなく愛する男なのである。

 働いて生きるくらいなら、働かないまま死にたいわ。それが私のモットーであり、人生訓であり、そして本能なのだ。

 

  • 社会は「働きたくない」を否定する

 しかし人間は働くことを愛しているし、当然、全人類がそうであると錯覚している。例えば私の家族。私の家族は私が働いている状態を好む。幼い頃は何度も何度も繰り返し伝えられたものだ。「働かざる者食うべからず」と。つまり働かざる者を徹底的に蔑視しているのである。

 基本的に、人間は労働状態にないものをこれほどまでなく軽蔑する。ニート、という単語はその最たる例である。ニート、などと呼称されてしまった暁には、それはもう、それだけで恐ろしくネガティブなニュアンスが付与される。働かざる者は社会的地位が低いどころか、明らかに軽蔑の対象であり、抑圧の対象なのだ。

 つまり私は働きたくないにもかかわらず、社会は労働を望む。これが何を意味するか。損失である。私はただ働きたくないだけなのに、それを実践した場合、社会的に大いなる損失を被る可能性が高い。例えば家族からは爪弾きにされるであろうし、友人からは「ニート」としての烙印によって判断される。もちろん、資本主義的活動——融資や保険など——は大きく制限される。このようにして、私は本懐を達するだけで、自動的に損失を被るのである。

 

  • 現実的解決策:働かずして働く

 これでは困ってしまう。ではどうすべきか。

 私はこのように考えた。外的には働いている状態とし、内的には働かなければ良い。つまり、何らかの職業を得ているように見せかけて、実際は何もしていない状況に自身を持っていくのが手っ取り早い。そのような結論に至ったのである。

 ではこの「働かずして働く」というドグマを、実際上にどのように落とし込むか。まずは外的状態、内的状態について、それぞれ検討しよう。

 まず、外的状態。働いている状態というのはいくらでも定義できるが、私の問題視しているのは社会的軽蔑による損失なのであって、あくまでその軽蔑のない状態でなければならない。故に、社会的に権威のある職業であることが望ましい。フリーターや期間工では——もちろん立派な職業である、と私は思っているが、社会的にはあまり好ましく思われていない——どうしても権威という点では物足りない。

 次に、内的状態。働いてはならない。この場合、労働とは、睡眠と余暇、それ以外のあらゆる状態のことを指す。つまり自分のやりたくないことはその時点で労働に該当する。この時点で、基本的に如何なる状態も労働に該当することとなる。この意味で、例えば投資家や不動産業など、いわゆる「不労所得」とされている部類も、私の検討からは排除されなければならない。これも私にとっては立派な労働である——何もせずして勝手に金が増えることなどあり得ないのだから。

 

  • 「働かずして働く」職業の提案

 次に、上記の検討を踏まえて「働かずして働く」職業を具体的に検討したい。

 ここでは二つ考えられる。

 第一に、閑職。いわゆる窓際族、と呼ばれるものである。ある程度の有力企業に籍を置き、また給金も得ているが、実際に労働と呼ばれるようなものには何一つとして従事していない。これこそ、働かずして働く、というものである。外的には立派な企業の一員であるし、内的には働いていない。

 しかしこれが現実的な解決策とは言い難い。窓際族になるためには二つの段階をクリアしなければならない。最初に、窓際族を用意できるような有力企業に入る。次に、その中で窓際族になるべく「努力」する。こうしてようやく初めて、窓際族は実現する。そしてどちらの段階も、基本的に運である。窓際族という制度が存在するかどうか、あるいはどのようにすれば窓際族になることが出来るか、これを知るのは至難の技であるし、知ったところで、今度は解雇との綱渡りが始まる。新丸ビルから丸ビルに向かって縄を投げ、上手く引っ掛け、固定し、しかも渡り切るようなものだ。現実的な策とは到底考えられない。

 

 ここで第二案として浮上したのが、作家——小説家に限らず脚本家や漫画家など、ある程度までは自宅で完結するような創作者——ということになる。

 これについてはまた明日。