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2023.03.09(残297日) 「働きたくない」と作家というキャリアについて②

2023.03.09(残297日)

 

 

  • 昨日のおさらい:働かずして働く

 昨日は、私の社会生活における前提を「働きたくない」と設定し、社会において働かない場合にはそのまま被差別対象となり、実益上の損失に繋がりかねないと指摘した。その上で、求められる地位としては「働かずして働く」ものであり、具体的には、何ら活動を伴わないものの社会的に権威が認められる、即ち実益上の損失を招き難い地位に在ることが望ましいとした。そこで具体的な職業として、窓際族とその非現実性を提示した。そしてもう一つ、作家業を提示したのであった。

 

  • 「働かずして働く」作家

 さて、昨日は「作家業」とひとくくりにしてしまったが、厳密に言えば「社会的権威のある実績を得た作家業」とするのがふさわしい。

 前提として、ここでの「作家」とは、自宅において何らかの創作に従事する者のことを指す。小説家に限らず、画家、漫画家、エッセイスト、などなど。このような創作者はすべて作家に該当する。

 外的に、作家というのは——何故だろうか––—名状しがたい高尚な職業として扱われている。とりわけ社会的権威のある実績——社会的に名の通った賞の受賞、連載作品の大成功など——を帯びた者については、それはもう、高貴な人物と同列に扱われる。「芥川賞作家」という事実の羅列に他ならない単語が持て囃されるのは、それ自体がそれほどの価値を帯びているためである。

 一方で内的に、作家とは基本的に自身の発想と能力によってのみ生産性が決定される。他者がその本人の生産性の良し悪しを判断できない。

 例えばサラリーマンがサボっていたらどうか。「彼がサボっているか否か」という問題は、タスクという客観的指標によって速やかに判断される。あるいは工場勤務者がサボっていたらどうか。ラインに明らかな乱れが発生し、原因はいとも容易く特定され、改善を要求される。つまり一般的な職業には、その人物の生産性が妥当なものであるか否か、必ず客観的に判断し得る指標が存在する。

 作家にはそれがない。作家の持つ工場は脳内においてのみ存在する。その生産性は、客観的に観測されるものではない。仮にその工場が稼働を停止していようとも、誰もそれに気づけない。少なくとも、短期的には発見され得ない。十年経っても新作を出さなかったときに、ようやく初めて、彼の脳内工場の生産性がゼロであることを知る。そこで初めて、彼がサボっていたことに気づくのである。

 簡潔に言おう。仮に社会的権威のある実績を得ているのであれば、他の人間に対して「私は作家です」と豪語しつつ、実際はずっと寝ていることも可能なのである。誰も彼に向かって「働け」とは言えない。言ったところで「構想中です」と言われて終わり。そもそも創作に携わる人間が少ないために、その真偽すら判断できない。

 これこそまさに、働かずして働く。彼は作家として常時働いていながら、その実、働いてなど居ない。

 

  • 働かずして働く作家のデメリット

 ただし、作家業には二つのデメリットが存在する。

 第一に、そもそも社会的権威を得ることが困難であるという点である。基本的に優秀でなければ社会的権威を獲得することは難しい。そして社会的権威が獲得できなければ、作家は単なるフリーターである。働かない人間に準じて、相応の実益上の損失を被ることであろう。

 第二に、作家の生計は自身の作品に依存するという点である。確かに作家がサボっていても働いていないとは判断されないので、実益上の損失を被ることはない。しかし、作家の得る金銭は自身の作品によって決定されるので、ただ単純に、生活に困窮することは容易に想像が出来る。これが窓際族とは異なってくる。

 このことを踏まえた上で考えられる最も理想的な形としては、処女作で大ブレイクし、賞を総なめし、大金を得、そしてサボる、というものであろう。もちろん、そんなことを出来る人間はそもそも「働きたくないから作家になろう」なんて考えない。

 

  • 補記:私はなぜ作家に本懐上の意義を付与したか?

 ところで、なぜ私はこのようなことを考えたのであろうか。それは私の現状が背景として存在する。

 私は働きたくない。自身の必要としないことに従事したいとは思えない。というより、睡眠と余暇の他のあらゆる活動に参加したくない。しかし社会的にこの願いは認められない。であれば、社会との訣別を図る——それも良いが、私は社会的死を望まないし、何より、人を騙し通すという行為に射精するほど快楽を覚えるので、まだまだ社会適合志願者の皮を被って動き回っていたい。

 ところで、創作活動というものに齢二十余歳にして初めて手を染めた私であるが、正直、飽きる。私は創作活動の畑から取れたじゃがいもではなく、眠り畑のピーナッツである。理想論や情熱によってのみじゃがいもと対峙することは難しい。筆の上手に運ばれないときなど、このMacBookをすぐにでも真っ二つにしてハワイで優雅に過ごしたくもなってくる。しかしそれとて結局同じ。いずれピース・オブ・シットが私を襲う。

 そうしないために、私は社会生活の観点から如何に作家は私の本懐に対して有効であるか、今一度整理しておきたいと思い、この分析を試みた。本すら読まない無知愚昧のピーナッツが美麗なじゃがいもたちに——彼らは恐ろしいことに「インカの目覚め」なのである!——ただ「創作」というフィールドで叶うはずもない。だから私は私の本懐と創作活動とをリンクさせたのだ。

 南無三。