2023.03.10(残296日)
- 二重思考の実践
初等教育をクリアした人間であればおそらく『1984年』について少しくらいは触れたことがあり、かつその中において記述されている二重思考に関しても熟知していることであろう。私は知らない。
ところで私はこの二重思考の積極的実践者でもある。二重思考は素晴らしい。矛盾を矛盾として捉えることなく、並列状態にある二つの事実として別個に把握することが出来る。つまり、二つの世界を同時に見ている状態に等しいわけである。これが素晴らしいものでなくてなんであろう。我々は一つの目、一つの個によって、二つの世界に存在しているのだ。二重思考はそれを可能にする。
- 二重思考の実践の具体例
とはいえ具体例を挙げなければ説明も茫漠としたものに尽きてしまうであろうから、ここで一つ、例を挙げたい。
例えば神は居る。そして神は居ない。これについて解説しよう。我々に神は居る。この世には「神」の存在を借りなければ説明できないような事柄が多く存在する。故に神は居る。一方で神は居ない。我々は実際に神を見たことがない。神を聞いたことがない。神を愛でたことすらないのである。この状況で神が居る、とする根拠は極めて乏しい。故に神は居ない。
では一方が一方を否定するであろうか。否定できない。両者とも基本的にその論拠は自身においてである。つまり価値観の差異にほかならない。価値観で他者の価値観を完全に否定することは難しい。並列状態に陥るのがオチであろう。ここで両者は併存する。
このようにして、併存し制服し得ないもの、これを両者とも認識することが、私における二重思考の実践である。民主主義は生きているし、同時に民主主義は死んでいる。日本は一流国家であるし、同時に日本は二流国家である。これらは決して否定され得ず併存する。愛らしい限りである。
- 二重思考を愛せよ
むしろ我々は二重思考を愛さなければならない。我々は二者択一を好むが、実際上、二者択一など存在し得ない。そもそもその二択というのは何か客観的指標によって否定され得るものではない。ただ確からしさの比較によって我々は選択しているのである。二つのうちいずれかが無謬なく否定されるなど考えている者は愚かしい。この世界はその実、あらゆる観点において二重思考なのである。それを忘れてはならない。
もちろん、本来の二重思考とは異なる用法であるとお気づきの方も多いとは思われるが——あの書物がこの世に産み落とされてからもはや七十年ほどが経過しているのである、多少のアレンジはご寛恕願いたい。