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2023.03.20(残286日) 諸活動における目的の意義について

2023.03.20(残286日)

 

  • なぜ私は怠惰を取り戻したのか?

 また私は怠惰な日々を送っている。厳密に言えば主体的行動を殆ど起こしていない。

 かつては異なっていたように思う。少なくとも一週間前まで、私はある作品に積極的に取り組んでいたはずであるし、映画やピアノなど趣味にも手を伸ばしていた。しかしここ一週間、また私は怠惰な、本性の私を取り戻してしまった。ではそれは何故か?

 理由は簡単なのだ。目的の喪失である。

 

  • 活動とは道である

 人間の活動というのは、基本的に大地における歩みに例えられる。何の標もなくただ広漠とした大地のみがあったとき、人間はどう歩けば良いのか分からなくなってしまう。ただぼんやりと手持ち無沙汰に歩いてみても、景色は変わらない。やがて飽きて、座り込んでしまうことも考えられよう。

 ここで道があったとする。人間は道を見つけると、とりあえずその道に沿って歩いてみる。あてもなく彷徨うよりかは安心して居られるし、何より、景色が変わってくるためである。

 その道に目的地の明記された、例えば道路標識のようなものが備わっていればなお良い。仮にその目的地が当人の求めるものであった場合には安心して進むことが出来るし、少なくとも目的地の良し悪しを判断することが出来る。

 この道、目的地の描かれた道が増えれば増えるほど、人間はより正しく大地を歩むことが出来る。目的地が多くあることで、自身の望む道を的確に選択することが出来る。

 

  • 常に目的を意識せよ

 そして目的こそ道における目的地であり、手段とは道に他ならない。基本的に活動においては目的を常に意識することが求められる。そうでなければ、仮に手段、即ち道、例えばピアノや映画、に触れていたとしても、目的、即ち行き先、ピアノや映画の求められる故を意識していなければ、その道がいくら正当なものであっても、ただあてのない放浪となってしまう。

 

  • 目的の再定義を!

 私はいま、ただ行き先の分からない道の中をぼんやり歩いている一人の青年である。確かに歩いているのであるが、しかし進んでいるとは限らない。仮に前進を望むのであれば、目的地を定め、その目的地に最もふさわしい道を選択しなければならない。この意味で、私は諸活動の目的について再定義を求められているのである。