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2023.03.21(残285日) 幸・不幸を操るテクニックについて

2023.03.21(残285日)

 

 既に一年も八十日が経過してしまった。人間は死期を悟るというが、私はどうであろうか。願わくは不老不死の獲得を。

 

 

  • 幸・不幸とは、人間の勝手な思い込みである

 私の人生訓の一つとして、物事には必ず二面性があるというものがある。どんな事象であろうとも、良いことばかり、悪いことばかり、ではない。基本的にどのような状況であろうとも、それは我々にメリットとデメリットをもたらしている。幸・不幸とはその両面性のうち、いずれか一方のみを主観によって選別し見ているがために発生する感情である。こういう、考えである。

 例えば、父親がろくでもない人間で、腐ったものを食べさせてきて、拒むと金銭的に脅迫を与えてくるような人格破綻者であったとする。一般的に、このような父親を持つことは望ましいことではなく、その父親を持ったことは当人にとってデメリットであり不幸である。こういう見方をされる。しかし、実はこの状況、父親が人格破綻者であるという状況は、ある意味において幸せですらある。それは、特異性である。一般的な人間には決して味わえない体験が、そこにはある。普通の父親は恐らく、腐った味噌汁など飲ませないだろうし、事あるごとに自身の金銭的価値を主張しないだろう。その父親が人格破綻者であるからこそ体験できるものである。そして一般に、特異性というのは人間社会において価値を持つ。人格破綻者の父親を持った、その事実そのものが、何らかの形で活用される可能性も十分にある。それは父親が人格破綻者であったことによってのみ成立する行為であり、その意味で人格破綻者の父親を持った者は幸いである。むしろ、一般的な人間はこのような親を想像すら出来ないという意味で凡庸であり、不幸である。

 このように、どのような絶望的状況においても、必ずメリット、デメリットの両面は存在する。幸せ、不幸せ、そのような議論はただ、その両面性のいずれかを捨て去っている——正確に言えば無視しているので沸き起こるものであるに過ぎない。事象そのものに幸・不幸は附属しない。ただ我々が決めているのだ。

 

  • 幸せに生きる実践的テクニック

 そして、人間は幸せでなければならない。人間は多幸感に突き動かされて活動する。不幸であると思い込むことほど、人生において損失となるものはない。我々は基本的に幸せでなければならない。

 故に私はこうしている。例えば自身の描いていた未来と異なる状況となり、強いストレスを覚えた。不幸だ、とすら思い込んでしまうかもしれない。そのとき、私は考える。この状況のメリットは何であるか。この状況によって、私はどのような幸せを得ているのだろうか、と。

 実際、私はいつだって幸せを得ているのだ。例え友人が目の前で殺されようとも、私は親しい人の殺害を目の当たりにしたこと、そしてそれによって浮かび上がる感情を体験できたこと、この意味で幸せなのだ。人生に幸せも不幸せもない。あるのはただ、人間の主観のみ。故に私はその両面を認識する。幸せであれば不幸せを。不幸せであれば幸せを。そうして、私は一般的人間の二倍の学びを得る。