2023.03.26(残280日)
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休日とは何か?
私は今日、休日について再定義しなければならない。休日は漠然と受け入れられているが、休日は基本的に何らかの意義を持っていなければならないし、その意義に沿って休日は設定されなければならない。では、その意義とは何であるか。なぜ我々は休まなければならないのであるか。
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休日の定義:休む——思考から解放される——日
休日とは何であるか。休む日である。では休むとは何か。私の一つの考えとしては、思考停止である。人間は、少なくとも成人は、基本的に常に思念と葛藤の荒波の中にある。将来への不安。家計の調整。人間関係。ストレス。不眠。その他もろもろの悩み。休むこととは、それらからの解放であり、つまり思考停止である。ネガティヴさが気になるのであればこうも言えよう:思考からの解放である。
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なぜ休まなければならないか?
ではなぜ、我々は休まなければならないのであるか。つまりなぜ我々は、思考から解放されなければならないのであるか。
それは思考そのものをブラッシュアップするために他ならない。人間は基本的に考えなければならない、生得的に複雑な思考と一生を添い遂げなければならないと定められた生物である。思考から人間は決して逃れることが出来ない。そして人間は、なんとも皮肉なことであるが、思考を継続すればするほど、その質というものは低下していく。思考というのは鉄のように断続的に鍛えられるからこそ堅牢に成長をみせるのであって、常日頃から叩いていてはやがて劣化して折れてしまう。つまり休むこととは、その思考という鉄をより強靭に仕上げるための冷却期間として意味を持つ。この意味において、休日、つまり思考からの解放は確実に為されなければならない。
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休日はどのように過ごされるべきか?
上記の定義を踏まえて、我々は休日をどのように過ごすべきか。言い換えれば、思考からの解放を着実に達成するために、我々はどのような一日を送るべきであるか。
面倒なので結論から言えば、少なくとも私にとって、作品である。特に映像作品である。映像作品を浴びるようにして眺める。これによって、私は思考から解放される。
そもそも思考からの解放とは、現実における諸問題の保留と深く関係する。現実のややこしいことを一切考えないことによってはじめて、人間はあらゆる思念から放たれる。この意味において、思考からの解放は現実逃避が望ましい。
そして現実逃避という観点ではフィクションが最も効果的である。また、漫画や本などと異なり、映像作品であれば思考の余地を我々に与えないので、現実逃避はより加速する。故に、休日は一日中、映像作品を眺めているのが好ましい。疲れたときに本や漫画を読めばよいのだ。
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最悪な休日の過ごし方:スマホを見て終える
むしろ絶対に避けなければならないのは、スマートフォンのコンテンツである。あれは現実の延長線上に位置しているものが多い。SNSはその最たる例であるし、YouTubeなど動画投稿サイトも、基本的に市井の人々が投稿しているという性質上、どちらかといえば非日常的コンテンツより我々の生活の延長線上に位置するようなものばかりである。これでは現実逃避には成り得ないし、現実から離れていないのであれば思考から解放されたとも言い難く、休日を過ごしたことにはならない。
スマートフォンは思考停止の象徴、などと言われる。しかし私からすれば、あれはむしろ人間を徹底的に思考の奴隷へと化す呪いのようなものである。呪いは解かれなければならない。故にスマートフォンを見て一日を終えることは避けるべきである。そもそもスマートフォンなんて、休日はそこらへんに投げ捨てておくのが良いだろう。
以上。