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2023.03.27(残279日) 「男らしさ」について

2023.03.27(残279日)

 

  • 男らしさの定義

 私は年始、抱負として以下の御旗を掲げた。

「男らしく生きる」

 しかし私らしからぬことではあるが、男らしさの定義を忘れていた。故にこれまでの三ヶ月、定義なくただ漠然とした文字列の中で私は生きていたことになる。ここで私は男らしさの定義を試みたい。

 

  • 男らしさ:男性に限定されない普通の人生訓

 断っておかなければならないが、男らしさとは人生訓であり、かつ、必ずしも生物学的オス、あるいは自認的男性に限定されるものではない。別に女性が持っていても良いし、トランスの方々が持っていても良いし、ノンセクシャルの方々が持っていても良い。よくある普遍的人生訓の一つ、と捉えてほしい。そして、私は生物学的にオスであり、自認としてもオスであり、その私が最も大切にしたい人生訓であるので、ここでは「男らしさ」という単語を用いている。ご理解いただきたい。

 

  • 男らしさ:すべての行為に泰然と責を負うこと

 では男らしさとは何か。私の信条として、これはすべての行為に泰然と責任を負うことである、と考えている。

 人間は基本的に無力である。一人ではどうにも出来ない。一人で足掻くにはあまりに大きい力が、この人間、あるいは地球、あるいは宇宙には働いている。我々の裁量によって何かを生み出すことなど出来ない。我々は枯れ草であり、宇宙という広い大地の中を風に流される存在でしかない。

 ではその上で、男らしさとは何か。

 例えば自身が過去に成功していたにもかかわらず、今現在、想像だにできなかったほどの苦境に立たされていたとする。これは誰のせいであるか。誰のせいでもない。そうなっていた。そういう風の吹き回し。明日は明日の風が吹く。そういうものでしかない。他者のせいでも、自分のせいでもない。

 しかしそれでも、男らしい人間というのは、そのすべてにおいて自身の責任を見出す。そして堂々と、自身の言動に——もちろん合理性を伴って——胸を這って生きている。自分がこうなったのはすべて自分の選択のせいである。いや、選択のおかげである。その一つ一つは、もちろん改善点も今であれば見受けられるが、当時においては自身の判断として最善である。そして今現在苦しい立場にあるのも、自身の選択の果実である。そのすべてには反省こそあれ、後悔なんてない。今が苦しいのであれば、ただ変えれば良い。

 基本的に必然でしか無い一生に自身の責任を見出し、受け入れ、今後もまた自身の責任の下で生きる。あるいは生きるのをやめる。堂々と。これが私の考える「男らしさ」である。

 

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 こうやって生きていれば、変に虚勢を張ったり、変に劣等感を抱いたり、あるいは変に嫉妬心を抱いたりすることもなかろう。それらはすべて責任放棄である。自身の選択に自負の念を持っていないのだから。

 

  • 後悔は責任放棄である

 ここで後悔をしてしまうと、彼は途端に男らしさを失う。後悔とは一見自責に見えてその実、過去の自身を現在の自身と切り離すという点で、連続的自己の結果としての原罪という視点を放棄するため、責任放棄である。後悔はしてはならない。

 もちろん反省は喜ばしい。反省とは、過去の自身と現在の視点を取り込んで対話するということであり、過去の自身との融和である。決して分離ではないので、あくまで彼は男らしい。むしろ連続的自己という認識を高めるという点において、反省は推奨されるべきことである。

 

 私は、男らしさをこのように定義する。仮に人類全般に適用するならば、そうだな、責任者らしさ、とでも言おうか。