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2023.04.02(残273日) 生活と疑似相関について

2023.04.02(残273日)

 

 

  • 私は寒い、春なのに

 なぜだか寒い。春が訪れた、ということに世間ではなっているが、私としてはずっと寒い。十二月からずっと、ずっと寒いのである。それは何故か。

 心が寒い。そんな馬鹿な。心が温度を左右するものか。構造上の欠陥である。それも有り得ない。室温は確かに上昇している。では、なぜか。体感温度として適温からやや低いままであるので、私は寒いのである。

 私の室内は十二月から二月、つまり一般的に冬とされている季節の間、室温十三度前後で保たれていた。そしてそのとき、私は下着にヒートテックを羽織っていたほか、上着として半纏を常にまとっていた。室内であるにもかかわらず靴下まで、履いていたのである。そのように防寒対策をしていたので、室温が低くとも、体感としてはある程度の暖かさ、やや寒いまでも暖房を稼働させるほどではない程度の暖かさを保っていた。

 そして三月になった。室温は二十度前後で推移した。下着はただの綿の下着、上着も靴下も脱いだ。結果として体感温度は変化していない。故に寒いのである。

 

  • 疑似相関はどこまでも

 これは万事にあてはまる。我々は、事前に予想されていたもの、それも一般的に広く予想されていて常識とまでされている状況と異なる現状に陥った場合、それに似つかわしい要因を求めがちである。しかし、客観的な観察を重ねていれば、その要因は案外些細なものであったりもする。それも自分の周りの、自分でどうにか出来る要因によるものであることも。

 春なのに寒い。そう考えてはならない。春であり、室温は上昇し、かつ服装が軽いものへと移行したので、私は寒いと感じている。我々は如何なる状況においても、このように考えなければならない。

 そして大衆は疑似相関を知らない。これこそ常識であるべきなのに。