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2023.04.21(残254日) 現状の葛藤に関する弁証法的解釈について

2023.04.21(残254日)

 

  • 私の中の葛藤は如何にして生じているか?

 思うに、私の人生においていま、コンフリクトが発生している。

 私の存在意義を見出したい。人生とは風であるし、生存に必要なものは肉と水に限られるのであるから、資本主義的労働に拘泥する理由など何一つとして無い。なにかそう思っているはずなのに、自身の市場価値向上に務めてしまっている。

 なぜ。創作者という、自己の体現たる道を検討しているにもかかわらず、それすら最適解であるようには思えない。なぜ?

 簡単なことだった。弁証法的に考えれば、非常に単純な二項対立であったのだ。

 

  • 自我たるテーゼ、非我たるアンチテーゼ

 テーゼは自我であり、アンチテーゼは非我として置かれる。自我たるテーゼは、つまり存在意義の追究であり、人生への悟りである。即ち、外界から隔絶された自己自身、あるいは自己自身への目がテーゼとして置かれている。一方の非我たるアンチテーゼは、他者からの評価、他者からの拒絶に対する恐怖、外聞、富、名声など、つまり外界そのものである。即ち、自己自身を疎外したものに対する恐怖、あるいは外への目がアンチテーゼとして置かれている。

 

  • 創作もまたテーゼ

 この意味で作家という道は決してジンテーゼと成り得ない。作家はあくまでテーゼの一部、即ち自己自身への目に他ならず、外界への目そのものを説明することには成り得ない。単純な例では、私が創作者を志し活動しようとも、決して外への目、外への恐怖は拭われない。それは明らかに異なるものであるためである。

 

 つまり葛藤はこのテーゼとジンテーゼによる対立によって生じているのであった。

 では両者の戦争を終えるには、一体何が必要であるか。

 無論、ジンテーゼである。自己自身への目であり外への目でもある、そのようなものを見出すことによって、私のコンフリクトは容易く立ち去ることであろう。