2023.04.27(残248日)
昨日の続きを。
映画『バビロン』における人間の描写はあまりに杜撰であった。では、なぜ?
正しく私の考えを伝えよう。私はあの映画に触れて、こう思った。
敢えて人間を虚ろなものとして描いたのではないだろうか?
なぜ?
映画だけが生き続けるから。
男優とは何か。女優とは何か。制作者、撮影者、その他多くの映画に携わった人間——彼らとは一体、何か。道具である。映画を形作るための道具。道具でしかない。たかだか百年足らずで死んでしまう我々など、映画の前においては。考えたことがあるだろうか、一つの映画に何万人にも人間が携わっているということを。私は考えたことがない。彼らがどれだけ人間であろうとも、映画の前には、彼らは必ず道具となる。
故に『バビロン』においても人間はみな、虚構であった。不明瞭な、一貫しない人間たち。下手に人間ドラマにしてしまうよりもずっと残酷であろう。明らかに死を、儚さを、そして道具としての人間を語ってしまう。劇中で語られていたように、何百人ものジャック・コンラッドは映画の中に立っている。それが道具以外の何かでなくて、何であろう。映画の前において、そもそも個性など無いのだ。『バビロン』では、それを極端に描いたに過ぎない。
しかし道具は必ず生産物を残す。この場合、映画を。たとえ道具の我々が死に絶えようとも、道具の生産物たる映画だけはずっと残り続ける。そして将来、知らないどこかの子どもが、今は亡き俳優の顔を見て、まるで友人のように親しみを覚える。
いくら人間が道具であろうとも、映画だけは、あるいは作品だけは、ずっと生きている。
これをどうしても伝えたかったのではないだろうか。
もしそうであったなら、とても嬉しい。