2023.05.01(残239日)
- フロムはかく語りき:同性愛者について
私はフロムの信奉者である。そして、フロムは同性愛者について、父性と母性の統合に失敗した者であると分析している。人間は本来、健全な環境において親から父性と母性のいずれをも獲得し、そして自身において統合することによって愛を、つまり異性への愛を知るのであるが、同性愛者はそれに失敗しているので、その不足している、あるいは統合し得ない何かを同性に求めているのである、と。フロムは明らかにカトリックの信奉者であるので、彼の分析に宗教的偏見が入り込んでいるのもまた確かではあろうが、フロムがそう言っているのであるから、私もまた、同様に考える。
- 私は何を愛するか?
いや、そんなはずはない。確かに私の家庭は崩壊した。父親は最終的に、文化的父親としての役割を完全に放棄した。しかしその以前から、少なくとも父親がいくぶん文化的父親であったそのときから、私は同性愛者的側面を持ち合わせていた。
厳密に言えば、そもそも私は同性愛者を選んだに過ぎない。幼い頃からそうであった。もともと人間的でないもの、野性的なものに強く惹かれていた。そして女性の曲線的、人間的フォルムがなんだか気に入らず、より野性的で着実な、遊離しないような、固定化されているような感覚の得られた同性を選んだ。
同性である必要、少なくとも人間の同性である必要はこの場合、どこにもない。オオカミが理性を持ち同意を得られるのであれば、私は恐らく今すぐにでもオオカミと交際を始めることだろう。人間という限られた種の中では同性がいくぶん許容できるというだけであって、父性と母性の統合、なんてことは少なくとも私において、何ら意味を持たない。物心ついたときから私はこのようであるのだから。ここでフロムの分析は明らかに反例を持つ。
ああ、もしかして、私は同性愛者ですらないのだろうか。フロムすら想定していなかった性的指向の形だからこそ、フロムの定義にすら当てはまらないのか?
しかし、私はオオカミのメスを愛することが出来るだろうか。オオカミのオスでなければならないような気さえしている。これではやはり、同性愛者であるのか。その差異は?
ただし、明らかであるのは、私は野性的なもの、動物的なものにのみ魅せられるということである。人間の同性にすら殆ど興味を持たないというのは、明らかにこの傾向を物語っている。人間的なものはとても気持ちが悪い。