2023.05.05(残240日)
こいのーぼおーりー。
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相談は大切:本当に?
私について人々はみな、口を揃えて言う。
「何でもかんでも一人で決める」
「一人で抱え込むタイプ」
「もっと人に相談したほうがいい」
確かにその指摘には中る部分も多かろう。その上で、こう言いたい。
「相談するためには、どうすれば良いですか?」
私は何も相談を控えているのではないし、あるいは相談そのものを忌避しているのではない。私はただ単に、相談とは何か、何を以て相談とするべきか、計りかねているのである。わからないのだ。何が相談か。だから私は諮ることなく、いつの間にか単独で決定している。
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相談:誰のためのもの?
そもそも人々の言う「相談」とは何か。特定事象について他者の意見を求めることを「相談」としているのであろうが、では一体、その特定事象とは一体どのようなものに依って区別されるのであろうか。
例えば人生について相談するとしよう。人生とは私そのものをも内包する。私そのものを知ってもらうためには、私の生まれ落ちたそのときから、私の身に降り掛かったこと、私の心境、あるいは私の見たこと聞いたこと、そのすべてを私は述べなければならない。さて、これは実現可能であろうか。時間・空間・人間としての制約が必ずそれを阻害する。
それを受け、仮に人生相談について制約を試みたとする。例えば就職先の相談にのみ限ったとする。このとき議論される結論は、果たして私にとって有用なものと成り得ようか。無論、否、である。私そのものを知らずして語られた未来など、所詮は机上の空論に過ぎない。特定の一モデルを妄想して語られたところで、そのモデルが私そのものでない以上、その結論もまた同様に私にとって意味あるものとは成り得ない。
他のことに関しても、基本的には同様である。就職。机や椅子の購入。あるいは金銭管理。どの局面においても、誰も私そのものを知らないし、また私もまた私そのものを提示することが出来ない以上、相談とは、少なくとも問題解決そのものにおいて、無価値である。
故に私は人に相談を試みない。あるいは、相談に思い当たらない。相談するべき事象とそうでない事象との境界が明瞭である場合にはその限りではないが、私には現状それが見えていないし、見えていない場合には非常に空虚な結論だけが得られると思われるので、相談をしない。
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情報提供としての「相談」はハオ
ただし、私にも外形的「相談」をすることはある。それは何か。情報収集である。
私が他者に求めるのは現状、情報提供に限られる。あるいは直接的利益。私に不足している情報を求めることはあっても、彼そのもののドグマは決して求めない。それは私にとって有用ではない。
むしろ求められるべきは情報提供である。相談の局面において、情報以外の何者も必要とはされていない。情報の不足している場合は声を掛けるし、そうでなければ声を掛けない。最終的な判断者は私なのであって、その判断に要されるのは情報以外の何者でもないのだから。
そもそも、なんでもかんでも相談するべきだとする連中のほうが明らかに狂っている。少なくとも、人間依存症である。私が依存するのは映画と書物とかわいいものたちで十分だ。人間は私の依存対象ではない。