2023.05.14(残231日)
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だいたい四対七というところであろうか?
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『ハーモニー』——人生における転換点
ハーモニー。
私の人生を語る上で、この作品を除外して語ることは決して出来ない。いや、そもそも許されないのである。この作品は私の人生観、あるいは社会そのものの色を——色というのは主観的なものであるから——大きく変えてしまった。
これと出会ったのは確か、高校生のときであったと思う。無邪気に永遠を信じていた私を、この作品は殺した。厳密に言えば、融かしてしまった。この作品を読み終えたとき、私の自我はミァハやトアン同様、融解した。
死とは何か。生とは何か。あるいは意識とは何か。そもそも、我々とは何か。この作品で私は自我に対する決定的な疑義——あるいは不確かであること、確立されていないこと、あるいは風のようであることに対する反感、それ以上の焦燥感に駆られた。少なくとも、この作品を境に、私は私として自我に対する遊離——キェルケゴールいうところの『絶望』を決定的に知ることとなった。
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死は対峙する——愛としての死
今思えば、この作品に新規性は殆ど見当たらない。少なくとも、私の認識しているものは無い。自我の消失という観点では、エヴァンゲリオンや1984年など、多くの作品において語られている。今出会ったところで、よくあるSF作品だなあ、と思ったかもしれない。しかしこの作品は人を魅せる。明らかに特異な作品である。なぜ。
死に対して、である。物質化された死。我々と対立する存在としての死。死への愛。これを描いたところに、かの作品の魅力はあるように思う。
自我の消失を描いた作品は数多あれど、その中で死は極めて茫漠としたものとして描かれている。自我の融解、自我の否定、その過程は描かれていても、それそのもの、それに直面する人間の内面そのものを描いたものは少ない。少なくとも、浅学たる私の知るところには無い。実際、作中において言及されていた『若きウェルテルの悩み』とて、絶望の過程は描かれていようとも、独白的スタイルであるため、最終的に自殺という選択に臨んだウェルテルが何を思ったか、その記述は無い。あの作品において、死とは手段に他ならない。他の作品も同様。エヴァンゲリオンも1984年もすばらしい新世界も、死とは逃避でしかない。
ハーモニーではその死が鮮明に、物質として、あるいは対峙すべき主体として描かれている。作者が癌に侵されながら、死を見ながら綴ったというのも大きいのであろうが——文中の表現が死そのものとして、あるいは死に対する告白のようなものとして確立されている。
人間は如何にして死ぬか。あるいは死とは何か。この作品において、死は対立するものとして、我々の前に立っている。なんとなく訪れる死、結果としての死、ではない。この作品における死は物質であり、我々という存在と明らかに対峙を見せる。そして最終的に、死を物質として、あるいは形として、抱擁するのである。死を連続的結末としてではなく、独立した個体として、愛するのだ。
『さよなら、わたし。
さよなら、たましい。
もう二度と会うことはないでしょう』
わたし、たましいとの別れとして。
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余談
ちなみに、私は最後のトアンをミァハが殺すシーン、原作よりも映画のほうが好きだ。
原作においてはせっかくの崇高さを、野蛮な欲求で台無しにしてしまっている。もちろん、対立軸として敢えてああいう結末を描いたのかもしれないが——作品全体の傾向からすれば、あの結末は極めて自然で、人間的に過ぎる。映画における結末、不自然極まりない狂気の結末であるほうが、我々との対立を決定的なものとし、作品の崇高さに不変性を与えるという点で、好ましいように思う。
そうそう、この作品は映画も良質である。好きな映画に数えても良いかも知らん。
参ったな。好きな作品について、私の指は留まるところを知らないらしい。