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2023.05.18(残227日) 好きな作品について⑥ / 『源氏物語』

2023.05.18(残227日)

 

 138日の経過。227日のリメイニング・デイズ。

 今日ほどアウレリウス=アントニヌスの言葉に感謝する日はない。君の安穏は外界でなく、心の中に在るのだ。

 

 

  • 一度読んだら二度と読めない——唯一無二の世界を読者に

 源氏物語とは何か。日本で最も著名な小説。王朝文学の極地。女流作家の源流。かの作品は、その年月から、そのような歴史的意義において語られることが多い。

 しかし私は異なる立場において、源氏物語を愛好する。源氏物語の魅力とは思うに、一度読んだら二度と読めなくなってしまうところに在ると思う。読まなくても良い、ではない。読めなくなってしまうのである。読者の行動に干渉する力が、この作品には明らかに在る。では、なぜ?

 源氏物語は世界そのものだから。

 この作品は光源氏という人物そのものの生と死を、彼の遺したものを、活き活きと描写する。誕生。成長。色恋。試練。友情。挫折。傷心。復権。栄華。離別。そして、彼の子孫。光源氏という一人の人物が如何に生きたか、それそのものをそのまま映している。そこに一切の加工は見られない。あるいは、感じさせない。光源氏という人間そのものを、文字は克明に示しているのである。

 光源氏だけではない。彼の取り巻く人間を含め、その小説で描かれているのは、ほんとうの世界である。少なくとも、その描写には一切の妥協がない。光源氏に愛された女性、あるいは光源氏の友、従身、その一人一人に個性が宿っている——いや個性と呼ばれるような冷たいものではなくて、まるで目の前でその人物が語っているような、そういう命の重みが源氏物語には宿っている。葵上の複雑な心持ち、紫上の葛藤と愛、花散里の風雅と隠れた悲嘆、あるいは近江君の無鉄砲さに、我々は読者としてではなく、目撃者として、その世界に加わった一員として臨む。

 それ故に、すべてが終わった後、我々はこの作品に二度と触れることが出来ない。この作品を読み終えたとき、この世界の終焉を我々は感じ取る。もう一度光源氏が誕生することは決して無い。彼はもう死んでしまった。物語は——この世界は、浮舟の出家で幕を閉じているのであるから。

 これが源氏物語である。千年以上愛され続けた作品——それはどの時代の人間に対しても等しく、世界を見せてきたからに他ならない。

 

  • 余談

 いったい誰が、現代でこれほどの大作を書けようか?

 現代人は自身の人生すら、望ましいように加工し出荷してしまう。それは自身が商品であり、自身に交換価値を付与しなければならないためであるが、自身すら加工してしまうような人間が、創作において加工なき作品を生み出せるはずもない。源氏物語は二度と生まれない。