まどどブログ

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2023.05.20(残225日) 好きな作品について⑧ / 『聖書』

2023.05.20(残225日)

 

 140日の経過。残225日。225-140=85。

 恐ろしい。既に140日が経過したというのか。私はこの140日において、一体何を成したか?

 

 

  • 崇高であり野蛮——人間は何を求めたか?

 聖書。地球上で最もよく知られた書物の一つであろう。私はキリスト者ではないし、無神論者であり神道者であるというところが私の宗教観において正しいのであるが、それでも私は聖書を右に置く。では、何故か?

 聖書の面白いところは、その二面性に在る。

 記述の内容は確かに、慈愛に満ちている。人間として為すべき正義、善きこと、その一つ一つに疑いの目を向ける者など、居ないであろう。聖書において記された善きこと、そしてそれを徹底すること、救貧、その精神は異教徒の目から見ても明らかに——人間として正しいことである。その「正しさ」が、これほどまでに多くの人間を惹き寄せたことに疑いはない。

 そして同時に、極めて野蛮である。主のほかに神はない、異教徒は滅ぼされてしまっても構わない。あるいは教化しなければならない。そのようなニュアンスが節々に見受けられる。支配の正当化、キリスト教による迫害の正当化である。つまり、人間の動物としての勢力圏拡大意欲を全面的に肯定しているのである。そこに慈愛も友愛もない。ただ、支配だけを肯定している。我々は正しいのであって、彼らは誤っているのである。そのような行動も、聖書においては許容される。キリスト者にのみ、慈愛は認められるのだ。

 このように聖書においては、慈愛と支配の二面性が対立することなく、ともに正しい行為として記述されている。人間の抱く信念として崇高であり、野蛮であるのだ。

 さて、人間はいずれを求めたか?

 

  • 余談

 これはアジア人こそ読まなければならない書物であるように思う。アジア人——とりわけ仏教の栄えているような地域の民においては、慈愛も無ければ、教化も無い。我々は他者への救済にも他者への啓蒙にも一切の興味がない。為すがまま——無常。あるいは非常に単純な、利益追求としての力による迫害。我々の抱く精神としては、このようなものだろう。

 それゆえに、欧米の不可解なまでの圧迫——それも暴力ではなく極めて無礼な、我々の文化の否定を前提とした「啓蒙」には、疑念を抱く者も多かろう。何も中国やミャンマーなど専制国家に留まらず、彼らの「啓蒙」の矛先は我々日本にさえ向く。彼らは自身の「正しさ」を躊躇すること無く主張する。尊重も無関心もそこには無い。

 その根底に、おそらく聖書は潜んでいる。彼らの行動様式の基盤を把握するために、この書物は欠かせない。