2023.05.26(残219日)
五月、31日のうち26日の経過。残り5日。16.1%。
一年、365日のうち146日の経過。残り219日。60%。
- 語彙を強い(しなさい)
昨日は何か大切なことを思い出したような気がしたというのに、忘れてしまった。何を考えていた、というのであろうか。人生に対する何か転回を予想させるような重要なものであった、という概念そのものは記憶しているのが、その具体的な内容を把握していない。
そもそも語彙の少なさが、私における最大の弱点である。語彙に乏しい。厳密に言えば、このようにして執筆が思考に優先する際に登場する語彙の貧弱さ。赤ちゃん言葉で話しているようなものである。ここで阿諛者どもに一矢報いることも出来れば、あるいは生きやすくなるのであろうが。
- 雑談
書くことを忘れてしまったので、雑談でも。
私は死んでいる。以前、あくまで仮定、そしてその上での信条として私は死を体験したものとして位置付けたのであるが、私はどうにも、ほんとうに死んでしまっているらしい。
そもそも死とは何か。死とは生命活動の停止である。では生命活動とは何か。呼吸をしていれば生命であるか。心臓が動いていれば生命であるか。医学上は生命であろうとも、動物として、それでは不足しているように思う。動物である以上、自発的に行動し、生に何らかの活力を見出すことこそ、生であり、死とはその生が失われた状態、すなわち活力なき状態であるように思われる。
翻って私は死んでいる。厳密に言えば、既に生と死とを見てしまった。私は生に活力を見出し、活力で肉体をむち打ち、そして活力によって生を謳歌し、生の苦楽を知った。そしてそれはすべて終わってしまった。生としてのプロセス——序破急を、私はすべて既に経験してしまったのである。およそ数年間の中で。
子供が何を言うか、と思う者もあるかもしれない。残念なことに、私の味わったことは、社会構成員の99.9%が決して経験せぬようなものであった。少なくとも、一般的社会活動よりかは合理的なものであった。
私は生まれ、動き、そして死んだ。少なくとも、そのプロセスを私は経験してしまった。私は死んでいたのだ。悲嘆でも諧謔でもなく、泰然と朽ち果てる老木のように——私は既に死んでいた。
むしろ、歓ばれることである。私はまた生まれるのだ。