まどどブログ

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2023.05.30(残215日) 天の視座について

2023.05.30(残215日)

 

 五月、31日のうち30日の経過。残り1日。3.23%。

 一年、365日のうち150日の経過。残り215日。58.90%。

 

 

  • 天の視座を持っています

 私は最近、天の視座に努めている。ここで「神」としないのは、その視座に人格が宿ってはならず、感情の無い、無機物としての目を持っていなければならないためである。

 天の視座とは何か。それはすべてを天の目において観察する。つまり、私自身、それそのものをも客体として眺める、そのことである。メタ視点、と一般に呼ばれるものであるが、それと異なるのは、メタ視点があくまで自己を主体に据えたままであるに対して——つまり自己そのものが神となるのに対して、天の視座においては自己そのものすら観察対象となる、というところにある。

 

  • 天の視座が雲を産む

 さて、天の視座を持つことは我々に、一体何をもたらすのであるか。

 それはひとえに、我々を雲と為さしむ。

 一般に、人間は見ているものを即ち世界と為す。見ているものが宇宙であり、見ているものが浮世であり、かつ、見ているものがすべてである。人間は極めて小さい範囲であろうとも、基本的に主観そのものを宇宙と認識する。わかりやすい例でいえば、学生は学校内の人間関係に悩まされ、苦しみ、果てには自殺する。あるいは親の軛を子は甘受する。

 天の視座はこれを否定する。天の視座を持つことで、人間の如何に小さいか思い知る。例えば彼を支配する誰か——親か、学友か、あるいは上司か——は、とても小さい。太陽、月、木、に留まらず、信号や自動車のような被造物よりも遥かに小さい。彼の主観——例えば労働によって呼び起こされる希死念慮——は、ほんとうに些細な、それこそ塵芥と区別の付かないものであることを見る。塵芥が我々人間であることを見る。そしていずれ、天の視座を持つことによって、天と同化し、肉体を忘れる。

 このようにして、天の視座を持つ者は、雲となる。人間であることを、人間を、肉体を忘れ、世俗から離れ、雲として浮世を漂うのである。主体としての視座によって浮世に縛られるのではなくて——我々は雲と呼ばれる。