まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2023.06.09(残205日) 年齢と傲慢について

2023.06.09(残205日)

 

 六月、30日のうち9日の経過。記憶にない。残り21日。70.0%。

 一年、365日のうち160日の経過。残り205日。56.16%。

 

 

  • 「俺は年上だから偉い」とは愚昧である

 人間とは肉であり、肉は殆ど同一の要素によって構成されているのであるから、人間に差異など生まれるはずもない。これが私のドグマである。社会契約はこの前提の上で成り立っている。

 このようであるから、もちろん身分や家柄に依る差異は肯定する。しかし我慢ならないのは、そのような社会的根拠のない傲慢——つまり年長者の虚勢である。

 

  • 年齢:肉体使用年数

 宣言しなければならないのであるが、私は何も若気の至りとして、例えば成田某のように、年長者そのものを否定しているのではない。年長者には経験の蓄積があり、その経験が合理的に検証可能である場合において、年長者は社会にとって極めて有用に働く。年長者は自決せよ、などというのは大変に経済学的な、というよりポピュリズム的な発言に過ぎない。私はその愚説と一線を画している。私にはただ、たとえば「俺はお前より年が上だ」といった理由によってのみ他者に傲慢に振る舞うことそのものが、耐え難いのである。

 そもそも年齢は権威の裏付けとならない。年齢とは肉体の劣化を示す数値であるほかにない。人間の肉体は年数を経るにつれ衰える。その肉体使用年数、客観的指標が年齢であり、それ以外のことは説明され得ない。年齢で権威を示すのは明らかに誤りであり、その誤りすら知覚できない愚かさに、私は耐え難い思いを抱くのである。

 

  • 権威:社会的妥当性

 権威とは社会的妥当性によってのみ発生するものである。例えば身分、家柄、学術的成果など。年齢はその妥当性に欠いている、なぜかというに、年齢は肉体償却指標にほかならないのであるから。その明らかに異質なものを権威として自身に負わせているような人間は、少なくとも、ウンコを主たるものとして食さなければならない。