まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2023.07.10(残174日) かけがえのないうたかたのわたし

2023.07.10(残174日)

 

 七月、31日のうち10日の経過。残り21日。67.7%。

 一年、365日のうち191日の経過。残り174日。47.67%。

 

 

 

 烈夏である。

 街の電柱を見てみよう。たとえば君が熱中症になってしまって、その下で倒れ、そのまま死んだとする。誰も通らなければ、そのうち君であった肉は蛆に侵され消えるだろう。せいぜいちょっとしたシミが数ヶ月残るくらいで、一年もすれば、君という存在、君そのものも綺麗さっぱり、消えてなくなる。そして最初から無かったかのように、万物は動き出す。

 しかし電柱はそこに在る。君がその根っこで倒れて死んで腐って消えてしまおうとも、電柱は社会において求められているのだから、維持され、そこに立っている。人間の手によって、大切に扱われることだろう。

 しかし電柱もまた、いずれ消えてなくなる。区画整理か、地下化か、文明の破綻か——いずれにせよ、電柱もまた、いずれ消えてなくなる。解体されるにせよ、放置され崩壊するにせよ、いまは堅牢に見えている電柱もまた、いずれ無くなる。そして最初から無かったかのように、万物は動き出す。

 コンビニも。マンションも。役所も。会社も。中央省庁も。国家も。法律も。

 森も。カブトムシも。蝿も。蛆も。オオカミも。ハイエナも。ワニも。鶏も。

 私も。

 すべて消えてなくなる。そして最初から何も無かったかのように、また宇宙は回り出す。

 最初から消えてなくなると分かっているのであれば、我々の成すことに一体何の意味があろう?

 

  • 我々とは無か?

 つまり唯物論である。肉体は精神に先行する。肉体の朽ちるとき、私そのものも消えてなくなる。そして、最初から無かったように万物は流転する。であれば、私の成すこともまた、そもそも無いようなものではないだろうか。消えてしまうのであれば、一体、いまこうして書いていること、思念、あるいは涙そのものに、如何なる意味があるというのか?

 無い。消えるのであるから、生に意味はない。

 であれば死すべきである。

 考えるな。死は生ではなく、生において死を考えるべきではない。

 しかし肉は朽つ。自我の崩壊は、客観的に観測されている。

 何の意味もないのだから、気楽に生きよ——マルクス・アウレリウスが仰せのように。

 何の意味もないのであれば、何もしないのが良い。プロフィットなきものにコストを投じる愚か者は居ない。もちろん、何もしないとは、生命活動の漸次停止である。

 

  • かけがえのないうたかたの……

 恐らく、意味など無い。そもそも我々の生存に何ら意味——個々における特異点——はない。

 しかしそれでは生きていられない。あなた、消えます。何の意味もありません。でもがんばって生きてください。誰ががんばるというのだろうか。生は楽しいことばかりではないのに。

 故に、生と死とは対立的であるのだ。私はかけがえのない唯一の個体である。私は消え去る泡沫である。この二面を、つまり生と死のそれぞれの局面を、我々は対立させなければならない。対立させつつ、いずれをも忘れることなく、またいずれにも囚われることなく、併存させるほかにない。こうして我々は、生きる他にないのだと思う。この明らかに分離された二面の止揚を、私は少なくとも現時点において、見いだせない。

 かけがえのないうたかたのわたし。矛盾を信じて我々は生きる他にないのだ。