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2023.07.13(残171日) 生きることと自分の責任について

2023.07.13(残171日)

 

 七月、31日のうち13日の経過。残り18日。58.1%。

 一年、365日のうち194日の経過。残り171日。46.85%。

 

 

  • この世の事象はすべて当人の責任

 思うに、この世界において自身にかかわる事象というのは、基本的に自身の責任において発生せしめたものである。

 これは何も法的責任を問うているのではない。過重労働や労働災害、環境汚染、動物虐殺は明らかに資本家の責任であるし、資本家はこれによって糾弾されるべきである。私が言いたいのはそれではなく、宇宙とは主観にほかならないのであるから、その宇宙において起こりうるものはすべて主観に依存し、故に自身の責任にかかるのではないか、というものである。

 

  • 主観としての宇宙

 まず宇宙とは主観である。認知というフィルターを通して情報処理が為される以上、人間は基本的に主観以外によって宇宙を観測することは無い。合理的解釈、つまり検証可能性を有する分析ですら、真に検証可能であるか否かは主観に依存する。故に、宇宙とは主観である。厳密にいえば、外的に宇宙とは物質であり、我々もまた同様であるが、内的にはいずれも主観である。その二面性について、ここで議論するものではない。またここで主観は統一された自己としての解釈以上に検討されない——哲学がしたいのではない。

 

  • 発生事象に対する認知——という責任

 宇宙とは主観であるのであるから、その局面において発生した事象もまた、主観によって発生されたものである。例えば長時間労働によって精神に異常をきたしたとする。一見すればこれは疑うところなく、客観的に、あるいは合理的に妥当であろう。しかしそうではない。もちろん長時間労働は糾弾されるべきであるが、それとは別に、長時間労働と精神異常とは直接的関係性を持たない。その間には何段階か隠れている、このように——長時間労働によって、睡眠が不足し、あるいは自分を追い詰め、そして最終的に思考が狭まって、精神異常をきたす。が、最初の段階において即座に退職すれば精神異常は起こり得ない。あるいは自身を追い詰めなければ、精神は比して安定していたかもしれない。自身の認知によって、現実を悪い方向に捉え考えていたからこそ、彼は精神を壊してしまったのである。

 これは認知において、自身の責任であるといえる。つまり現実を認知によって歪めている。事象を私が勝手に解釈しているのだ。自身の責任というのが相応しいであろう。

 

  • 責任という救い——そして悟り

 何もメンタルヘルスを無下にしているのではない。これは救いなのだ。現実は私の認知によって如何様にも変更できる。

 私を糾弾する者が居たとして、ある私は自分を追い詰めてしまうだろう。しかしある私は平然としたものである。何故なら、彼らも私もみな死ぬのだから。死ぬ者に興味を抱くことも、また死ぬ者が苦悩するのも、等しく愚かしい。

 果てに、これは悟りである。問われる「無」とは、まさしくこのことであったのだ。