まどどブログ

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2023.07.18(残166日) 自分との向き合い方について

2023.07.18(残166日)

 

 七月、31日のうち18日の経過。残り13日。41.9%。

 一年、365日のうち199日の経過。残り166日。45.58%。

 

 

  • 天啓!

 自己との向き合い方。

 『ネッスン・ドルマ』を聴いていた私の脳に——主が舞い降りた。私は伝統宗教の信徒であるはずであるが、こういうとき、どうしても主の存在を隣に感じざるを得ない。

 簡単なことだった。

 向き合わなければ良い。私は私のことを一切、考えなければよかったのだ。

 

  • 仮説のレヴュー:外にも目を見よ

 私は以前、このような仮説を提唱した。外を見よ。内にこもっていて、いったい如何にして視界は開けようか。

 これもまた、正しい。確かにこのようである。外を見なければ、内部、つまり自己自身のみを見ていれば、視界は極めて狭まってしまう。外部によってのみ知識は得られる。

 そして不完全であった。外部は知識のみもたらすのではない。知恵をも、外部は有している。私の中にそれはなく、知恵は根本的に輸入されるものであった。まるで資源の乏しい島国がエネルギーを外に求めるように、私もまた外に知識と知恵とを求めなければならなかった——少なくとも、現段階においてはそうであったのだ!

 

  • 自己疎外は否定されるか?

 考えてもみてほしい。何かに没頭しているとき、そこに私は居るであろうか。居ないであろう。私はそもそも疎外されている。

 ここで私を見たとき、あるいは私との対話を試みたとき、途端に外部との交流は断たれる。少なくとも、断続的なものとなり、密着したものとは程遠くなる。はしたなくなる。

 これではダメだ。はしたないものは醜い。いずれかで無ければならぬ。少なくとも私のごとき凡人は、いずれかを選択しなければならぬ。二者択一。両取りなど決して有り得ない。それに私の脳容量は明らかに足らない。

 もちろん、これは最適解ではない。キェルケゴールいうところの『絶望』もしよう。自己自身が消えてしまうかもしれない。しかし、それで良い。そもそも私は死ぬ。君も死ぬ。何もかも死ぬ。死ぬのであるから、絶望を迎えたとて、それはキリスト者においてのみ問題とされるものである。私には何ら関するところがない。最初から居ない者に、絶望も自己自身もあったものではない。

 

  • 私よ、考えるな——私を!

 故に考えてはならない。私を考えるな。内部に目を向けるな。移すな。消えよ。

 私は何を好むのか? 私はどういう選好を抱いているのか? 私の思考はいったい如何なる機序を宿しているのか?

 すべて考えるな。考えて良いのは、例えば映画の感想であるとか、漫画の感想であるとか、このような具体的な、外的なものに限られる。それ以外のものは考えてはならない。私そのものについて目を向けてはならない。

 私が私を見たとき、私は必ず私に囚われる。そうなってはもう、生命が開けるはずもない。