2023.07.31(残153日)
七月、31日のうち31日の経過。終わり。
一年、365日のうち212日の経過。残り41.92%。
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映画と現実の融けた日々
懺悔しよう。私は映画と現実との区別がついていなかった。いや、正確には、区別できなかった。
同じものに見えたのだ。映画も現実も。どこからが映画で、どこからが現実で、そしてどこまでが映画で、どこまでが現実で、何が映画で、何が現実か。これらがすべて混沌として、あるいは混ざり合って、峻別されないで、融けてしまっていたのである。あたかも水とワインのように——もちろん、理性においては映画と現実との区別は出来ていたし、いま自身がどちらであるか、それを認識すらしていたが、しかし、魂の領域において、つまり本能として、混乱状態にあった。いまは映画、いまは現実、このように言い聞かせて、他者に対してもそのように振る舞っていたのに、当の本人たる私においては、映画も現実も、同じものに見えてしまっていた。
恥ずかしながら、これは真実である。
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映画と視覚・聴覚と現実
そしてこれを解消するに至ったわけであるが、その前に、なぜ融けたか?
現実と映画とは、だいたいのところで一致している。少なくとも、視覚情報・聴覚情報において、映画と現実とは等しい。
映画において作用する五感はどこであるか。それは視覚と聴覚である。視覚と聴覚を用いて、我々は映画を鑑賞する。それ以外の五感に関しては作用しない。作用することもない。触覚、嗅覚、味覚。これは映画鑑賞において、間接的に働くことこそあれ、基本的に鑑賞という局面においてはその役目を閉じているのである。
むしろ、こう言えよう。視覚情報と聴覚情報にのみ依存して何かを把握するのは、基本的に映画を観ているのと同じである。つまり映画と現実との区別がつかなくなる、なぜかというに、それは同質の情報として処理されるのであるから。映画を観ているのと同じように、現実と接することになってしまう。これでは映画と現実との間に、いったい如何なる差異があろうか。聴覚と視覚のみに依存すれば、自ずと、現実は現実としての色を失うのである。
これが私であった。
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映画と現実を分けた日
では、映画と現実とを分かつには、いったいどのようにすれば良いのか?
風である。映画に風はない。現実には風がある。風を感じる。風を感じられなければ、映画は映画であるし、風を感じられれば、現実は現実である。
何も妄想の産物ではない。前述の通り、映画は触覚・嗅覚・味覚、そのいずれも働かせることがない。あるいは、その程度が小さい。4DXであろうとも、香るものはどこまでも人工的であるし、何より、触れない。しかし現実は触ることが出来る。風もまた、肌を撫でているという点では触ることが出来る。嗅覚。味覚。触覚。これらを覚えるとき、我々は現実に居るのだ。
これを私は『映画症候群』と名付けたい。私は視覚と嗅覚に頼ったがために、現実から分離され、映画に囚われてしまっていたのであった。
もちろん症候群と名付くからには他の症状にも遭ったのであるが……。