まどどブログ

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2023.08.25(残128日) 作品の序章とクオリティについて

2023.08.25(残128日)

 

 八月、31日のうち25日の経過。残り6日。19.4%。

 一年、365日のうち237日の経過。残り128日。35.07%。

  • 序盤で全容をみる

 自惚れであれば良いのだが、私は最近、序盤に目を通しただけで、その作品の行く末、展開、結末、を見通せるようになってしまった。つまるところ、その作品がどの程度のクオリティのものであるか、良作か、凡作か、駄作か、たった数行、ないし数分で、だいたい、見極められるようになってしまったのである。

 たとえば映画。映画なんて、もう最初の十秒で充分だ。画角。カメラワーク。間。投影されるもの。光の入り方。音。そういうものによって、だいたい、これを作った人がどういう程度の人間で、この作品はどの程度の水準のものであるか、読み取れてしまう。

 書籍でもそれは同じである。序文を読めば、ああこれは劣等感が滲み出ているな、とか、この作者は人間嫌いであるな、とか、この作者は修辞に終止していてつまらないな、とか、やっぱりそういうことが感じ取れる。

 そして、これらの評価はたいてい、終盤まで覆らない。序盤において抱いた印象は、仮にそれがなんとなくの印象であったとして、中盤忘れていたとしても、結局、最後まで通したときに、同じ印象を抱いてしまう。

 

  • 序章こそ心臓

 さて、これは自惚れであろうか。そもそも、何もこれは私の特殊能力でも何でもなくて、作品普遍の真理ではなかろうか。

 畢竟、序盤すらマトモに作り上げることのできない人間が良作を作ることはできない、ということになろう。意図しているのであればまだしも、意図せず、真剣に考えてなおくだらない導入しか見出だせないような者は、結局、良作——カルト映画など含み、人の記憶に残るもの——を練り上げることなどできない。そもそも、良作を作り上げる才能がない。だから序盤が面白くなければすべてつまらない。それだけだ。恐らく。

 簡潔に言えば、序章の退屈な作品は、全部退屈だ。そして序章が魅力的であるか否かは、結局、その人のセンス、才能、つまり人間特性から離れたところ、後天的には如何ともし難いところ、にかかっている。自身の才能を測りたいのであれば、気ままに作品を書いてみて、序章を読み返してみると良い。それが退屈であれば、無才である。

 その意味で、私は明らかに無才である。泣いちゃった。

 

 ちなみに、矢張り一番畏れ多く思われたのは『タイタニック』である。まだまだ映画も漫画も書籍も知らぬ身ではあるが、その身で申すなら、あれは何か人間に持たぬものを持っている。そう思われて仕方がない。