2023.09.06(残116日)
九月、30日のうち6日の経過。残り24日。80.0%。
一年、365日のうち249日の経過。残り116日。31.78%。
- 日本の政治活動、キモ!w
日本人の政治活動はどうにも醜い。政治そのものが醜いのは確かであるのだが、それでもなお、日本人のそれ、あるいは日本の政治活動家には、どうも嫌悪感を抱く。
なぜだろうか。簡単だ。科学的でないから。
- 科学を知らない民族
そもそも日本人は科学というものを知らない。基本的に、というか例外なく感情で動く民族であるので、その主張に裏付けがないし、裏付けのないことが許される。
例えば「みんなの思っていることが正しい」とか、「がんばった人が評価されるべき」とか。みんながこう思っていることと、正しさ。がんばったことと、評価。これらには何の関係も無い、少なくとも論証されていないのであるが、何故か、日本ではこれが無条件にまかり通る。最悪の文化である、と思うのだが、とにかく、日本人は「お気持ち」に依ってのみ主張を組み立てるし、それが疑いなく受け入れられる。
他の民族がどうかとかはともかく、少なくとも日本人は、科学を知らない。あるいは扱えず無視している。
- 政治活動家の「お気持ち」バトル
日本人がこうであるのだから、当然、日本の政治活動、日本の政治活動家もこのようになる。
彼ら、政治にかかわる者なんてのは、日本人を煮詰めたようなものだ。何でもかんでも「お気持ち」を優先させる。法的根拠も科学的根拠も、あるいは論理性も合理性もすべて無視。彼らの——代弁者気取りであるらしいが、客観性のない時点で明らかに代理者たり得ず——「お気持ち」だけが、彼らにとっては至上命題。ネオリベも似非保守も、みな「お気持ち」だけで自身の思想を展開し、相手の思想を糾弾する。さながら闘牛のように、彼らは「お気持ち」バトルを繰り広げている。
だから醜い。およそ人間のすることとは思えない。彼らが闘牛を自負しているのであればまだしも、彼らは「政治活動家」という、極めて人間的な属性を自称しているのである。であれば、少なくとも彼らは、人間的行動をしなければならない。闘牛でありたいのならば、闘牛でなければならないのである。その乖離、そして無自覚が、なんとも気持ち悪い。ゴキブリがポワソンでテーブルに登場したかのような気色悪さだ。
政治活動家で闘牛でないのは、ごく一部の、科学的思考を持つ政治家に限られるであろう。いつまでも政権交代が実現しないわけだ。政治家が人間でなければ出来ないのは自明であるので、まず、人間にならなければならない。