2023.09.21(残101日)
九月、30日のうち21日の経過。残り9日。30.0%。
一年、365日のうち464日の経過。残り101日。27.67%。
承前
ここ数ヶ月、創作をサボってきた。一文字も書かなかったし、一線も描かなかった。
いや、もう三年になるだろうか。はじめて私が創作の世界に触れてからというもの、時間は多くあって、実際自由に生きてきたというのに、私は大した努力もせず、ただ現実逃避にばかりかまけて、創作者然としてきた。白状しよう。私は愚かだ。何もせず、技術や心構えすら学ぼうともせず、ただ蘊蓄ばかり収集して、偉そうに思想を語ってきた、クズだ。
だからこれも、いつもの方法論に終わってしまうのかもしれない。それでも今日の発見は革命的であったので、そのリスクを承知しつつ、ここに遺す。
私はなぜ創作者でありたいか?
私が創作に求めるもの。それがようやく見出だせたような、そんな気がする。
確かに私は物体である。肉体であり、自由意志などあり得ない。私の意志、理性なるものはすべて肉体的反応に依るものであり、それは当然の帰結、自然の摂理、そもそも考慮されるべきものは何一つとして有り得ない。すべて、アンコントローラブルなのである。私よりも大きい何か、つまり宇宙が、私を定めている。私にはどうしようもないことだ。そもそも自我なんて無いのだろう。事実として、人間は人間ではない。ただの肉だ。
しかし私は同時に、個である。自然の中で、例えば這うアリ、佇む木、石のように、私もまた彼らと対等に、一つの個である。いくら自我の無を体得しようとも、いくら摂理を悟ろうとも、いくら自然にこの身を融解せしめようとも、この人皮はどうしようもなく、一人の人間として私を映す。この涙はどうしようもなく、一人の人間として私を濡らす。
分かりきったことだ。私の意志など、ありふれたものであることなんて。しかし、それでも私は、どうしようもなく、一人の人間であり、悩み、苦しみ、怒り、嘆き、喜び、そして愛する、愚鈍な一つの生物だ。私は生きている。生きているんだから、私は生きていること、生きている証を、どうしても残したい。残さなければ、気がすまない。生きていることを、私はどうしても示したい。
違う。私に証なんて必要ない。私はただ、生きていたい。温かみがほしい。血を分けた何か、温度を持った何かがほしい。
違う。本音で語ろう。私は乾いている。足らない日々を過ごしている。満ちているのに足らぬ日々を。空虚な日々を。空虚な日々を埋め合わせるために――
違う。ああ、もう分からない。私はなぜ、書きたいのか?
さらば、映画よ
一つだけ確かなことがある。
さらば、映画よ。
私は自然の作用でもなければ代理人でもない。実際はそうなんだろう。しかし私は――私だ。分化できない、一人の人間だ。一つの個だ。木や地球や太陽のように、一つの個だ。宇宙が個を決定するように、個もまた宇宙を決定する。私もその中の一つだ。
そう、信じていたい。
だから私は映画から離れる。私は私として、現実と共にあることを選ぶ。
映画は私に夢を見させてくれる。決して叶うことのない夢を。そうして私は死ぬだろう。自分で生きている、自分は生きている、俺は人生を切り拓いている、その喜びから逃げおおせたまま。いずれやってくる死、私の終わりに、私は何を思うだろう。これもまた摂理、と諦観を通すか。長ければ何十年もすべてを捨て去って、私そのものを否定し続けて、私という個を最期まで閉ざすか?
もちろん受難は私を待つ。現実は苦しい。楽園は失われた。それでも私は映画から去る。去らなければならない。もうたくさんだ。苦難に屈する日々。苦難を甘受する日々。私を捨て去る日々。もういやなんだ。私は生きていたい。私は一人の人間として、何か生きていた、私はこうやって生きていました、そう言えるものがほしい。最初から無いものだからこそ、すべて消えてなかったことにされてしまう運命だからこそ、より大きな何かがすべて決めてしまうからこそ、ダメなんだ。私は私という一人の人間を、どうしようもなく、愛したい。いずれ消えるものにこそ愛を捧げたい。
違う。ああ、そうか。私は――私が大好きだ。恋い焦がれ、苦しみ、悩み、涙し、絶望の淵に立ってなお、それでも生き抜こうと足掻く私。素朴な発見に心から喜ぶ私。理性的であろうとして感情に覆われる私。そんな私が、矛盾と純真に愛された私が、愛おしくてたまらないんだ。
これだったのか。私が何かを記す理由。夢を見たいからでもなければ、つらい現実から逃れるためでもなければ、成功を夢見るからでもない。愛する私のため。他の誰よりも、他の何よりも愛する私のため。そのために私は、私が楽しめるような、私の糧となるような、私の根源となるような、そんな物語を作っていたい。だから私は物語を記す。他の誰のためでもなく、私のために。それが実益となれば、なお良い。
まとめ
これが私の動機、魂の叫びである。と、信じたい。
あとはまあ、同年代が素晴らしい作品を練り上げていることへの嫉妬とか、労働者として生きることへの反感とか、焦げついた恋の昇華欲求とか。
ただ、これらは補助的なものでしかないのだろう。
私は私のために。誰よりも大切な私が、私のために、私の人生を切り拓く。
なんて甘美な響きだろう。お抹茶に付すのが良さそうだ。とにかく――
人生を拓け。開拓者たれ。退屈な人生を、テンプレートの人生を、この手でブッ壊すんだ。
補記:作品によるモニタリング
まったく別件だが、何か書くと、自身の心理状況がモニタリングできて良い。例えば、先の「退屈な人生」とは、何気なく書いた秋晴れの描写から浮かび上がってきたものだった――感情を移すものだからこそ、こういう自身の潜在的な課題なんかも、滲んでくるのだろう。これもまた一興である。自分の心境変化なんかも克明に表れるしね。ブログだとこうはいかない――客観的分析に終始してしまう。