まどどブログ

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2023.09.26(残96日) 執筆での留意点について

2023.09.26(残96日)

 

 九月、30日のうち26日の経過。残り4日。13.3%。

 一年、365日のうち269日の経過。残り96日。26.30%。

 

 

  • 執筆活動のスランプ

 執筆活動、明らかにスランプであったようだ。私は何も書けなかった。数ヶ月。もちろん怠惰に横たわっていたのもあるのだが、何より――書けなかった。書くことが思い浮かんだとしても、最初の数行書き記しただけで、キーボードに打つ手が止まった。次に何を続ければ良いのか、あるいは何が来るべきか、かつて直感的に把握していたそれが、分からなくなってしまった。

 それは何故であったか。今日、ある作家のエッセイを読んでいたときであった。にわかに天はその答えを与えた。

 執筆の意義、文学特有の、文学にだけ与えられた性質を、忘れていたのであった。

 

  • 媒体ごとの特性

 そもそも創作物とは、何かを世に知らしめることである。つまり、自身の脳内の思念の吐露と、その共有、というものが機能としてある。

 そして創作物には、いくつかの種類がある。文学、漫画、絵画、映画、音楽、彫刻、など。このうち私の手に負えるのは文学と漫画であろう。せいぜい映画も、だろうか。ともかく、多くの種類がある。そして、それぞれには与えられた特性、いわば個性のようなものがある。文字のみ、文字と絵画、絵画のみ、映像と音、音のみ、造形物、など。それによって、その創作物の人々に与えるもの、つまりその創作物の意義のようなもの、も変化する。

 そしてこれを私は完全に失念していた。恥ずかしいことである、かつて分析を試み記録に残していたというのに。すっかり同一視してしまい、共通項――私の場合には、ストーリーやテーマについてあれこれ考えるに留まっていた。そりゃ執筆も進まないだろう。君が書きたいものは、別に漫画でも映画でもいいのだ。その区別、文学でなければならないわけ、それを明確にしなければ、執筆できるはずもない。テーマ、ストーリー、その以前に、芸術の特性というものを把握しなければならないのである。

 なぜ、その媒体か。これが異なれば、示すべきテーマも大きく異なる。それを真っ先に考えなければならない。考えなければ、媒体ごとに特性があるとも気づかず、取捨選択も盛り上げるところも漠然としたまま、なんとなく媒体共通の注意点だけ気をつけて形作ることとなる。結果、テーマも内容も描写もふわふわしていて退屈な、小説でいい映画(たとえば『リボルバー・リリー』)なんかが誕生する。『リボルバー・リリー』は説明と設定とをてんこ盛りにした代わりに俳優陣の実力とアクションと金と映像とを全部ドブに捨てた教科書的駄作だと思っているのだが、それはまた、後日に。

 そもそも、文学は文字、漫画は文字と絵画、映画は映像と音、というように、媒体の表示方式が完全に異なっているので、その媒体の役割が異なるなんてことも自明なはずなのであるが、案外忘れるものである。特に媒体横断的な創作の際には注意が必要だ。小説や漫画の映画化、なんてときに大失態を犯すのはこれが故であろう。

 

  • 文学の役割

 さて、文学の役割、文学だけが果たすことの出来ること、とは何か。

 文学の役割とは、考えさせること、読者の思考に直接触れて呼び覚ますこと、にある。文字媒体であるからこそ、あるいは非常に人間的営みに近しい部分であるからこそ、人々はその紙面に書かれた内容、人物に深く入り込み、共感し、否定し、そして考える。人間の奥深く、左脳と右脳をふんだんに使うからこそ、人間の思考の奥底を呼び覚ます。つまり、文学とは思考のトリガーである。漫画や映画のような、世界そのものを伝える、いわば魔術のような媒体とは、この点において異なっていると思う。文学は何も別世界を記すためだけに在るのではない。あくまで人間の生理たる思考に寄り添ったものなのだ。

 言い換えれば、文学は「私」の延長線上にある。漫画や映画のように、現実との隔絶が可視化されているものには決して持ち得ない特性であろう。

 

  • 書くべき内容

 では文学の役割、思考のトリガーであるということを踏まえて、私は執筆において何を書くべきか。

 まず世界そのものを記すのに文学は力不足である。漫画や映画のほうがより精確に記述できるだろう。無理に文学でしようとすれば、ライトノベルのようになる。また、一点もののテーマを示すのにも不向きだろう。たとえば月光の美しさ、なんかを直接的に表現したいのなら、音楽や絵画のほうが向いている。文学には――少なくとも一般に――言語的接続が求められる。

 では、何を書くべきか?

 人生に対する問い、私そのものに対する問いであると思う。文学とは思考のトリガーである。その役割を存分に活かすためには、私が抱えている問い、葛藤、悩み、つまり私の思考そのものを、ストーリーや世界観に仮託して吐露するのがいちばん良いと思う。

 ただし、「うちの子をどうやってしつけよう?」とか「あの上司をどうやっていたぶろう?」とか、そういうものではいけない。特定の誰かに対する恨みつらみ、日常の個人的な鬱憤に、読者は揺さぶられない。もっと普遍的な、誰しも触れたことがある、その普遍的価値観というポットの中で、自身の問い、もしあれば答え、「私はこう考えている」というのを煮出して注ぐ。人生、とか。推しの炎上、とか。犬と人間、とか。「うちの子をどうやってしつけよう?」を育児に。「あの上司をどうやっていたぶろう?」を社会批判に。このように昇華できるのが、文学の本懐なんではなかろうか。もちろん、自己擁護、自己愛の吐露に収斂してはならないが。とにかく、個人的ではなく、普遍的に。

 たとえば三島由紀夫は『金閣寺』において、認識と行動の一致をテーマとしていたらしい――ぶっちゃけ私はあれを爆笑コメディだとしか思えず、そんな問いが設定されていたなんてことも最近知ったのだが、ともかく、彼のテーマはそれであったらしい。こういうように、文学において作家は読者の多くが考えたこと、考えていること、あるいは考えること、を書く。故にテーマは必然的に、自分もまた考えていることとなる。自分も考えていなければ、人が考えることなど出来やしないのだから。

 自分が考えていること。読者も考えること。みんな考えられること。これを書くのが、文学において求められることではないだろうか?

 

  • テーマにおける注意

 ちなみに、『金閣寺』を爆笑コメディだと思っていたことの教訓の一つに、読者が考えてもみないことだと表層的に受け取られてしまう、ということがある。星ばかり見ていた私にとって、世界とは「星か、星でないか」でしかなかった。認識と行動の一致なぞ、浅学で恐縮だが、考えも及ばなかったことだった。故に私は『金閣寺』を読んだとき、主人公は陰キャ、突然セックスを目撃する、なんか障害者が出てくる、果てに揉みしだいている胸が金閣寺になる――ここで耐えられなくなってしまった。後に『プラネット・テラー』を観たとき、真っ先に『金閣寺』を思い浮かべたほどだ。たぶん今でも爆笑する。

 もちろん、この場合は私が愚昧で三島由紀夫の理念に敵わなかった、ということに尽きる。が、劣悪な作品でもその原理は同様であるように思う。普遍的価値観とは、いわば銃弾である。銃弾もなくトリガーを引いたところで、銃たる思考は空振りするか、暴発する。果てに、退屈だと捨てられるか、爆笑され消費される。

 その銃弾があるか否か。つまり、読者にも理解してもらえるような問題であるか否か。これにも十分に配慮しなければならない。

 

  • まとめ

 今日は久々に長文となってしまったので、簡単にまとめたい。

・媒体ごと、固有の役割

・媒体固有の役割をまず把握する、しないと、作品は何もかもぼやける

・文学の役割:思考のトリガー、読者の思考を呼び覚ます

・文学で示すべき内容:自身の思考、普遍的価値観(読者が共感できること)に対する自問(あれば自答)

・文学で注意すべき点:普遍的価値観を前提にしてテーマを考えること、しないと、作品は表面的に受け取られる

 

  • 前言撤回、再考察

 なんか違うような気もしてきた。これを考えたところで書けるようになったわけでもないし、なにより『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のように、一見すればパラレル・ワールドの描写に過ぎないが、その奥底には強いメッセージが込められていて、思考のトリガーとなるようなものもある。

 もしかしたら、文学はトリガーなのではなくて、調整弁、という効果があるのだろうか。思考の調律のような。自我を安定させるような何か。いや、しかし、私の場合には映画のほうが……。

 詰まるところ――世に示したいものが何か、それによるのかもしれない。滔々と語るのが向いているのであれば文学。没入感をもって示したいのならば映画。超現実的な躍動感を持たせたいのなら漫画。あれ、これなんじゃないだろうか。嗅覚や触覚を直接描くことが出来るのは文学だけだが、かといって、『チェンソーマン』や『ターミネーター』を文章にしたところで、映画ほど心躍るものとはならないだろう。

 やっぱり分からない。こんなこと考えるだけでも無駄なのかもしれない。表示方式が作用するだけなのかも。あるいは力量だろうか。それとも、ただ好きになった媒体を各々特に理由もなく選択している?

 少し検討が必要だが、ともかく、書くしかない。行動あるのみ。