2023.09.27(残95日)
九月、30日のうち27日の経過。残り3日。10.0%。
一年、365日のうち270日の経過。残り95日。26.03%。
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媒体の特性、その形式から
昨日の続きである。あれこれ考えていても仕方がないので、さっさとまとめたい。
あれから一晩ぼんやりと考えていて、媒体ごとの特性とは、その媒体の形式に明らかに依拠しているものである、という仮説を得た。私の興味にある、文学、映画に触れて解説したい。
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文学の特性
文学は文字を用いる。文字は語るに優れるが、映すに劣る。
文字とは何か。文字とは記号であり、視覚に作用する。が、それ以上に、思考に大きく作用する。文字とは記号でしかない。色もなければ温度もない。ただ、記号としての形がインクとして紙に染み込んでいるに過ぎない。文字をただ形として捉え眺めていても、そこには何ら意味を見出だせない。思考が作用してこそ、その文字には有機的意味が付与される。
それを踏まえて、文字という記号の長短をみたい。まず長所として、内面表示にも有用である。文字は記号であり、記号は羅列するしか使い道がないので、その描写そのものに制限はない。映像であれば視覚情報であるため人間はあくまで物質としか映せないが、文字は人間の思考まで一応、インクの染みと為すことが出来る。この特性から、心情や葛藤、陰惨たる欲望など、人間の内面的部分、内奥を示すのにも用いることが出来る。
一方、短所として、文字の集合体、つまり文章の解釈を有する場合、必ず主観が介在する。その解釈には個々の主観が多分に入り組む。例えば私は『金閣寺』について、爆笑コメディだとしか思えなかった。もちろん、爆笑コメディではないし、愛好家は激怒するであろうが、これもまた、主観の介在が引き起こす齟齬である。ある人には感銘を与え、またある人には人生の転換を感じさせたとしても、私にとってはひどく人工的な、いうなれば『プラネット・テラー』と『チャップリンの悔悟』をごちゃ混ぜにしたような、陰惨で狂気的なコメディでしかない。思考に大きく作用するからこそ、その思考によって鑑賞は大きく異なってくる。
このように、文学の特性として、故に、仮に解釈を要するもの――たとえば小説や詩歌――に限ったとして、主観そのものに問いかけ内奥を顕にするには有効であるが、見たもの聞いたものをそのまま伝えるには困難が生ずる。いや不可能である。行間が重視されるのは恐らく、これが故である。
もちろん、解釈が一切必要とされない媒体、例えば論文等においては、この限りではない。文字は記号であるのだから、論文という情報提示においては極めて有効であろう。
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映画の特性
ここで4DXは例外とする。
映画は映像と音と時間によって構成されている。映像と音と時間とは、没入に優れるが、語るに劣る。
映画における映像と音はそのまま視覚情報と聴覚情報であるので、視覚と聴覚に直接的に作用する。五感の二つも用いているので、映画にはリアリティが付与される。そして何より、映画は連続的な時間をも持つ。時間というのは現実を構成する主たる要素の一つであるから、感覚への作用も相まって、映画というのは現実にかなり接近する。観客はスクリーンに文字通り引き込まれ、その世界に没入する。
しかし、あまりに現実的であるがあまり、現実から超越したもの、自然でないものに対しては強烈な違和感を覚える。例えば主人公が突っ立ったまま表情も変えずに語っている、女性が突然走り出したかと思えば号哭する、など。映画において描かれるものは、たとえそれがSFであろうとも、幾分かは現実に即したもの、有機的接続のあるものでなければならない。
内面の変化があったのかもしれないじゃないか。その通り。女性が何か堪えきれなくなって号哭に走ったのかもしれない。この場合、内面を表現してはじめて、言動に現実性が付与される。
ただし映像と音と時間とでは、人間の内面を直接的に表現することが出来ない。もちろん言動に示す、表情に示す、黒澤明のように背景描写で示す、など工夫の仕様はあるが、それでも、ある人の思考そのものではない。むしろ思考をそのまま示すのは野暮な行為である。現実離れしているから。
このように、映画は視覚と聴覚による没入感の提供に役立つが、何か言葉によって語る、内奥を顕にするのには不向きである。
なお、4DXであれば五感がフルに活かされるので、映画は現実そのものとなる。その分、現実的でないことを考える余地は失われる。『トップ・ガン マーヴェリック』を4DXで観た者の感想の一つとして「ストーリーを追う暇がない、まずは一回動かない座席で観るべし」というものがあった。それもそうだろう。私も観たが、冗談抜きでトム・クルーズになってしまって、前後関係なんて完全に何処かへ行ってしまった。それほど強い現実感を与えるし、超現実的要素を排除してしまうのである。
(注記:アート作品であれば超現実的に描くことも出来る。例えば『アンダルシアの犬』など。ここでは娯楽作品について考えたい。暗殺の危機に瀕している女性が突如セックスし出したら怖ろしい――『ターミネーター』の感想である。)
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参考:文学と映画の比較
ここで終わらせても良いのだが、参考までに、一つの例を用いて両者を比較したい。
例えば主人公が突っ立っていて滔々と語っていたとしよう。
小説であればよくあることだ。クソみてえに長い台詞を、途中の変化も描かずに、ただひたすら、声に出してみれば恐らく三分は要するであろう長時間、話している。現実であれば狂人だが、小説では許される。小説とは文字であり、文字とは記号であり。記号からは聴覚的情報が失われているので、人々はそういうところにまで気が回らない。
さて、同じことを映画でやられたらどうだろうか。死ぬほど退屈だろう。仮に語っていただけであるとしても、登場人物の表情や声が刻々と変化する、背景がとんでもないことになっている――このように視覚的・聴覚的変化がなければ、映画はとたんに現実から隔絶されたものとなり、観客はスクリーンから客席へと引き戻される。そして、ただ座っているのと変わらない、退屈なものとなる。
以上のように、現実を見せることにおいては、映画に軍配が上がる。
ただし、現実により近いということは、思考レベルもまた現実と等しくなる、ということを意味する。
先の例について、映画であれば、観客は何を思うか。まずこれだろう。
「なんでこいつはこんな、長々と語ってやがんだ?」
その内容いかんにかかわらず、その動機、現実離れの所以、こういったところに気が回るのではないだろうか。これは映画の没入感がもたらす効果である。映画は観客をスクリーンに引き寄せ、観客はスクリーンに現実をみるので、現実との距離に意識を置いている。
他方、文学ではどうだろう。例えば源氏物語。その大半が台詞である。これで先のようなことを思う者がいようか。なぜこいつは滔々とこんなことを、と思う者はどの程度いるだろうか。私は思ったが、そんなことよりまず多くの人間はその台詞の内容自体に着目することだろう。それは文学が思考によって成立しているから。文学には時間という概念もなければ視覚情報もない。ただ、思考によって、読者は眼前のインクの染みを解釈し楽しんでいる。読者は現実を見ているのではなくて、思考を見ているのである。思考であるから、たとえ台詞がクソ長くとも、極端な場合でなければ、読者は受け入れ解釈する。
文学と映画の差異は、このようである。同じ光景でも、媒体によっての作用は大きく異なるのだ。
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まとめ
今日も長くなってしまった。まとめたい。
1.文学
・文学とは文字
・文字とは記号でありインクの染み
・インクの染みを解釈するのは主観
⇒文学は思考的作品
長所:内奥を顕にする、滔々と語る、読者に考えさせる
短所:光景そのものを共有できない、主観によって解釈が大きく異なる
2.映画
・映画とは映像、音、時間
・映像、音、時間とは現実的要素
→観客はスクリーンに没入
⇒映画は現実的作品
長所:光景そのものの共有、現実としての描写
短所:場面場面に有機的接続が求められる(現実離れできない)、人間の内面を直接示すのに不向きである、観客の思考が現実レベルとなる
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余談
私はたぶん、小説家に向いていない。私は結局オオカミで、思念を上手に扱えないのだ。それだけ書いて、小説家を諦めようと思う。
さて、明日は創作に必要な要素について書きたい。行動、追究、インプット、観察、前進、愛、熱情、執念、冲融、そして怒り。そして絶対に排除しなければならない要素も。自己陶酔、焦燥、憔悴、停滞、絶望、そして懐古。