2023.09.29(残93日)
九月、30日のうち29日の経過。残り1日。3.3%。
一年、365日のうち272日の経過。残り93日。25.48%。
●反創作五箇条
さて昨日は創作九箇条について述べた。行動、追究、冲融、前進、吸収、観察、熱情、執念、そして憤怒。
今日はむしろ、創作において絶対に持ってはならぬものについて述べたい。以下のものは創作を滞らせるだけに留まらず、未来永劫その者を創作から遠ざけてしまうかもしれない危険な代物であるから、反創作六箇条と名付けたい。さて反創作五箇条とは――陶酔、停滞、焦燥、絶望、そして懐古(憔悴は焦燥に含めた)。
持ってはならないものに加え、なぜ持ってはならないのか、持たぬためにはどうすべきか、についても触れる。
なお、これは私のための五箇条である。他の誰のためのものではない。私の怠惰で気まぐれな性格において必要な五箇条であり、生真面目で定型的な性格の方には必要でない五箇条である。忘れぬよう。
①陶酔
陶酔は最悪である。とりわけ自己陶酔は最悪だ。陶酔に絆された時点で、その者は表現者であることを已め、ただ歪んだ自意識を醜く曝け出す怪物と成り果てる。
表現とは、そもそも客観視出来なければ成されない。自身の情念を見つめ、自身の作品の拙さを洗い出し、技法、心構え、テーマ、知識、何が足りないのか検討し、そして目的に向かって必要なものをひたすら取り入れる。どの過程においても、メタ認知は欠かすことの出来ないものである。
ここで陶酔が加わればどうであるか。ああ私は無比の者である、この作品は類を見ない出来である、世の中はあまりに愚かしい、つまらない作品ばかりだ、と。彼は即ち上達を放棄するだろう。陶酔とは酔うことであり、酔うこととは客観的視座を失うことであり、客観的視座を失うこととは自身の課題を失うことであり、自身の課題を失えば則ち人は腐る。
では、どう防ぐか。
追究すれば良い。
陶酔に根拠はない。あるいは、極端である。例えばつまらない作品ばかりだと考えたとき、そもそも何を以て「つまらない」と考えているのか、また何故そう断言できるのか、明らかではない。「なぜ」と問い続ければ、いずれどこかで必ず返答に窮する。窮したとき、なぜ窮したのか考える。それで生産的な解が導き出せないのであれば、貴方は陶酔に陥っている。
つまり追究である。「なぜ」を続ける。「なぜ」を忘れたとき、人間は陶酔している。
また陶酔しているとき、人間は行動に出ない。意味もない自信でいっぱいだから。行動から遠ざかっているときもまた、陶酔の好例である。用心せよ。
②停滞
停滞もまた悪い。
SNSを眺め続ける。意味もなくWikipediaを眺めている。意味もなく妄想に、それも何の根拠もない自身の未来に耽る――最悪だ。その時間でアニメでも観たほうが、まだインプットという観点で好ましい。
創作とは常に前進しなければならない。何故ならば、創作とは新規的でなければ、心が持たないためである。二作も三作も、まったく同じテーマの小説を書きたいだろうか。分からないことを分からないままにして、下手な絵を量産し続けたいか? 誰しもが途中で筆を折ることだろう。それはもはや拷問に近い。前進しなければ、創作はただの拷問と化すのである。
故に停滞は罪深い。自身を痛めつけているようなものだ。成功体験を自身から奪ってしまう。怠惰はこの意味においても、自身を苦しめる。
ではどう防ぐか。
念じる他にはない。前に進め。
③焦燥
焦燥――これは何も締め切りのことを言うているのではない。ここでの焦燥とは、精神的余裕の喪失を意味する。
創作とはそもそも、精神的余裕が前提とされると考える。これは私の自説ではなくて、マインド・ワンダリングという漠然とした思考のさまよいが創造的思考を促進させる可能性は実際に指摘されている(マインド・ワンダリングが悪影響を及ぼす可能性も指摘されているものの、表現者はずっと彷徨えるわけではないのでここで議論しない)。創作は心が広々としていなければ、そもそも為されない。厳密に言えば、満足な創造的活動が困難となる。
ここで焦燥は、そのマインド・ワンダリングを完全に奪う。焦燥とは、何かにフォーカスしてあれこれ考えることである。家族。友人。仕事。将来。締め切り――何か一つについてずっと考えてしまうことは、思考のさまよいの対極に位置する。マインド・ワンダリングの欠如は創造的思考の促進を止めてしまう。故に、焦燥は創作において排除すべき要素となる。
では、どう防ぐか。
行動と冲融である。
まず行動。動いてしまえば焦燥は忘れられる。焦燥とは行動の裏側でもある。行動せぬから焦燥を覚える。創作に限らず、何もしていなければ人間は自ずとストレスを抱えるようになると云う。焦燥は行動の前には無力なのだ。
次に冲融。満たされたときのあの心理状態――それを再現する。また、焦燥時の自身の何か行動かなにかを羅列し、実際に行動に出たら都度対処する。あまりに焦燥に駆られてしまったら、すべて忘れてドライブにでも出かける。このようにして、焦燥を払拭し、冲融に在るのが、効果的であろう。
④絶望
停滞に近い意味を持つが、停滞よりも罪深い。
「俺はなんてダメなんだろう」と思って筆を置いた場合、当たり前だが、創作はいつまで経っても成されない。創作は表現者が表現しなければ創作たりえないのである。つまり絶望は創作を捨てることそのものに繋がる。
ではどう防ぐか。
九箇条すべてを動員して、自身と今一度向き合う。
行動。絶望する前にまず手を動かしてみる。追究。なぜ絶望するのか考える。冲融。心のゆとりを取り戻す。前進。少しでも前に進む。吸収。深く考えずにインプットする。観察。ぼんやりとでも世界に心を開く。熱情。愛するものを見つめ直す。執念。創作に薄暗く粘着する。そして憤怒。赦していないものをもう一度はっきりと示す。
ここまでやって絶望が去らなければ、たぶん創作に向いていないか、精神的に正常でないか、いずれかだと思う。
⑤懐古
懐古。これをやっている人間はもう、創作から手を引いた方がいい。
懐古とはそもそも、人間として最悪の行為である。人間は現在を生きているのであり、過去に生きているのではない。時間とは少なくとも現在の技術において一方向性のものであり、過去を思い浮かべたからといって過去が手の中に収まってくれることなんてのは絶対にない。
とりわけ創作とは、一般人よりもずっと、前を向いていなければならない。明らかだ。創作なんて何がモチベでやるのか。完成だろう。作品ができあがって鑑賞して、はじめて表現者は報われるのである。どう頑張ったって前を向くしかない。前を向いていなければやっていられない。成果に結びつかない、時間の無駄ですら思える現在を未来に向けなければ、我々は救われないのである。
それで、懐古?
もちろん過去のロマンに想いを馳せるのは良いことだ。大正ロマン、昭和ロマンなんかもこの類のものだろう。が、ロマンを未来に活かすのと、過去を懐かしむのとではぜんぜん違う。懐古をしたいのなら老人相手にでも語っておれ。
どう防ぐか。
懐古するなら創作から手を引け。創作に身をおいていたいならば懐古しないだろうし、それでも懐古するようなら、君はその程度の人間ということだ。さっさと足洗って社会に溶け込む努力でもするんだな。
●おわりに
創作九箇条――行動、追究、冲融、前進、吸収、観察、熱情、執念、そして憤怒。
反創作五箇条――陶酔、停滞、焦燥、絶望、そして懐古。
忘れることはないだろうし、忘れたら私は去らなければならない。二度と創作に生きることなど夢見てはならない。たぶん、もし今回もまた過去の同じようなことに至ったとすれば、私の未来は決定的に凡庸なものとなるだろう。それを甘受せねばならぬ。既に塹壕の中に在ることを覚えながら、敢えて出て敵陣に突っ込むようなものだ。その愚者が私であることを、私は認め、そして愚者にならなければならない。MacBookもiPadも両断しなければならない。すべて破壊して、君は死ななければならない。
ああ、嫌になる。既に私は塹壕から片脚を出しているのではないだろうか?
――
キェルケゴールは云う、絶望とは罪である。
私は物たる私、思念する肉としての私を知った。その矛盾が、個たる私を月に対置させ宇宙たる私として包摂させるに至った。そして無知の知は私に微笑みかけ、ガラナは層雲峡の私に天啓を与えた。
なぜ創作をするのか。何が好きか。何を残したいか。そして、何に注意するか。すべてが明瞭で、怠惰にも飽きて、私は一体どうすれば、再び創作を去ることができようか。一体どうして、忘れることができようか?
層雲峡で確かに雨は私は祝福した。君は書かなければならぬ、と、まばらな雨粒は伝えた。旅にも眠りにも飽いた、と私は月に語った。月は白糠に、私にそっぽを向いた。
既に道は決している。二つの道は明々と目的地を指す。あとはもう――私が選ぶほかない。鬱屈とした原野か、灰色のアスファルトか。開拓者か、地主か。少年か、大人か。
君はどうなんだ?
私は立っている。二本の道を胸に抱いて。いつの間にか、ここまで来ていた。二本の道を前に見るほど、私は歩いてきた。歩いてきた?
そうか。歩いてきたんだ。この七年。僕はちゃんと歩いていた。
さてここ数日、自省に殆どの時間を割いてしまった。
必要な時間であったかどうかは、私の行動が決める。