まどどブログ

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2023.09.30(残92日) 教条の補足について

2023.09.30(残92日)

 

 九月、30日のうち30日の経過。おわり。

 一年、365日のうち273日の経過。残り92日。25.21%。

 

 

金科玉条の改定

 昨日、一昨日と続いて私の主柱たるものを打ち立てたわけであるが、その補強をしたい。

 教条について。私の教条は変化する。金科玉条とは銘打ったものの、変更の余地は充分に在る。教条主義に陥ることは停滞である。停滞すれば則ち死ぬ。

 ただし変更は追究の末、矛盾の解消が明確になった場合に限る。怠惰によって変更すれば、また死ぬ。

 

●条文の選定基準

 条文の選定基準について。心構えに終始していて、具体的行動について殆ど触れられていない。それが死文化を招くのではないか、とも考えたので、念のため、言語化しておく。

 そもそも私の根底に科学主義がある。この世は再現可能的であり、再現可能的で無いものは、少なくとも現状において排除するのが妥当である。

 そして科学主義に則って考えれば、精神とは肉体である、というところに至る。自我、魂というものはなくて、この葛藤や絶望というものは肉体の作用によって引き起こされているに過ぎない。神たる私など存在することを得ず、ただ在るのは肉体としての私である。私が私を決定しているのでは決してなくて、肉体が、厳密には脳など肉体各部における作用が、私を決定付けている。

 ここで、たとえば具体的行動について触れたところでどうだろうか。早く寝ましょう。三食とりましょう。寸暇を惜しんで勉強しましょう。目標とマイルストーンを設定しましょう……これが役立つか役立たないか、そんなものはいずれにせよ肉体が決定するのである。仮に寸暇を惜しんで勉強したところで、肉体が勉強に最適化されていれば意味を為すし、最適化されていなければ何の意味もない。目標とマイルストーンを打ち立てたところで、肉体が目標に向かって進むよう仕向ければ容易に達されるし、そうでなければ何も進まない。すべては肉体が決定する。肉体の前にどんな具体的目標も無力である。世に溢れたハウトゥー本ではこの観点が決定的に欠落している――精神論! 精神論ほど無価値なものはない。精神などまやかしに過ぎないのであるから。

 そう、精神とはまやかしなのである。自我は実在しない。しかし人々は自我の存在を信じる。実際に在るかどうかではなくて、ドグマとしての実存――少なくとも人は個として「私」が在ると信じている。それは私も同じ。私もまた、肉体としての私と、個としての私という対立に苛まれていた。

 そして対立はある発見をもたらした。自我、つまり精神が肉体の一部であるとするならば、精神が肉体に作用を及ぼすことも可能であるはずだ。同じ肉体なのであるから。そう考えたのである。

 例えば楽しいと感じたものに対し、人間は寝食を忘れることが在る。これは科学的にも実際に――メカニズムは解明されていないようなのであるが――何か興味関心を抱くものに対する睡眠量の減少、記憶力の向上、というものは観測されているようである。すべては肉体が決定するが、肉体たる精神もまた、肉体の決定に選挙権を持つ。

 であれば、実際の認知を変更し、そのように思い込む、あるいは行動指針として潜在意識に刷り込むことによって、肉体に対して好意的な反応を求める、ということが出来るはずである。心理療法に行動認知療法と呼ぶものがあるが、それを私は応用した。

 故に、ドグマとして記述されているのである。具体的行動は何ら意味を持たない。意味を持つのは認知である。認知の設定が肉体としての私に作用する。そして肉体たる自我に還元される。こういう狙いがあって、私は心構え、最も求められる認知と最も排除すべき認知、というものを羅列したのだ。

 

●具体的指標の重要性と今後の課題

 ただしドグマとはあくまで進む方法を説くようなもので、実際に進む道、進行ペース、進行ルートなどは、具体的指標によって決定されなければならない。故に具体的指標もまた重要な意味合いを持つ。しかしそれはドグマが無ければ何の意味もない。タイヤなくして自動車を運ぶものだ。

 タイヤを私は得た。次は自動車を運ばなければならない。

 

●沖融と怠惰のちがい

 沖融――冲融は異字だったようだ、確かににすいとは寒々しいことである――と怠惰について、あまり差異がみられない、解釈によってはどうとでもなるのではないか、というのがふと疑問として思い至った。

 実は私もまだ、模索している段階である。あまり確かなことを述べられないのが残念であるが、現状の仮説として――追究と焦燥の有無が決定するのではないか、と考えている。

 まず怠惰とは何か。それは停滞である。怠惰は自身の状態を留め置くことであるから停滞である。停滞とは自身を固定化することであり、そして浮世は絶えず流れているのであるから、停滞していて満たされる、なんてことが在るはずない。そのどこかには空虚を――焦燥を必ず覚える。故に怠惰は停滞であり、停滞は焦燥を生む。焦燥を覚えたということは、怠惰である。

 では何故、焦燥を覚えるか。それは追究が足らぬからではないだろうか。たとえば、今の行為がをなぜ自分がしているか、それを明確に述べられるのであれば、焦燥の生ずる余地はない。アニメを観ている。映画館に足を運んでいる。友人と会話を楽しむ。旅をしている。セックスをしている――これに明確な動機があるのであれば人はどうして、焦燥を覚えるのだろうか。セックスをしていて焦燥を覚えるのなら、自身がなぜセックスをしているのか、その追究を怠っているからではないだろうか?

 つまり怠惰とは、追究なく時間を浪費することであり、それには必ず焦燥を伴う。ぼんやりしていて焦燥感を抱くのであれば、君は創作から背いている。仮に満たされているのであれば、ちゃんと沖融の只中に在る、ということになろう。

 

●各条文の順序や優先順位

 創作九箇条と反創作五箇条の順序、優先順位について。

 まず創作九箇条について。すべて重要である。一つとして欠くことは出来ない。が、強いて分類するならば、行動・追究・沖融・前進は生き様そのものへの注意であり、吸収・観察はインプットにおける注意であり、熱情・執念・憤怒はアウトプットにおける注意である。

 次に反創作五箇条について。これには明確な順序がある――陶酔、停滞と焦燥、絶望、そして懐古。現在の自身、等身大の自分からの逃避が徐々に進行している様を、ここでは示している。陶酔によって自身の像を失い、停滞によって焦燥を覚え、やがて停滞は絶望へと転化し、絶望は現在からの逃避――懐古を招く。こうして表現者は、いや人間は、等身大の生を已む。撃ちてし止まむ、とはこのことである。自らを撃ち殺したのだ。

 

 いい加減焦燥を感じてきた。焦燥を追究すれば、自省ばかりで何も進んでいないことに行き着く。であれば、行動に移ろう。