まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2023.10.06(残86日) 信念

2023.10.06(残86日)

 

 十月、31日のうち6日の経過。残り25日。80.6%。

 一年、365日のうち279日の経過。残り86日。23.56%。

 

●吹雪の炎

 私は同人誌が好きだ。自己愛と無教養に塗りたくられた駄作……もたまに在るのだが、技術・ストーリーテリングともに上手な方が多い上、商業ラインでは採算的・倫理的に難しいであろう、珍しいテーマやモチーフなんかに触れることが出来るので、とても良い勉強になる。

 そして何より、商業作品には絶対に描かれない、あるいは商業作家がみな昇華させてしまったであろう魂の鳴動、生命の炎が、そこには在る。

 夢、現実、矛盾。苦境、無理解、葛藤、破滅。絶望、涙。逃避。それでもなお、哀れなまでに真っ直ぐな目。若くしてすべてを見て、すべてを諦めて、すべてを捨ててしまったのに、なお、自身の夢だけは、願いだけは、希望だけは、どうしても切り離せない。叫ばずにはいられない。吹雪の中に燃えたぎる一線の炎。その炎に、その本は身を包んでいる。

 その熱は読者に伝播する。私にも。その熱は私の心に凍る氷を、溶かしてしまった。

 

●信念

 あることを、思い出した。

 かつて私には夢があった。中学生のころである。その幼い、無責任で、そして無邪気な心は、中高一貫校という狭い世界の中で、美しい夢を見ていた。

 誰かの未来になりたい。

 誰か一人でも良い。私の幼さ。私の責務。私のすべて。それを見て、誰か一人でも、私のようになりたい、私のような人間で在りたい、そう思ってくれる人がいるのなら。私を、なんでもいい、役職でも人間性でも、どこか一つでも、未来と定めてくれる人がいるのなら。そんなことがあったらいいな。そういう素朴な夢を抱いていた。ただ私に尊敬する先輩がいたから、私もそうなりたかったから、という単純な理由で。

 

 どうして忘れてしまっていたのだろう。学友の裏切りか。父との離別か。未来への絶望か。愛の破滅か。社会からの拒絶か。

 凡庸であることの、決定的な証明か。

 すべて、だろう。確かに私はあまりに悲劇的な日々を送っていた。客観的にみても、これは確かだろう。あまりに凄惨、思春期の終焉を迎えた四年間で立て続けにこんな受難に襲われれば、誰だって心を凍らせる。感受性、夢、希望、そんなものすべて凍らせ、二度と動き出さないようにしてしまう。自身を守るために、私はすべてを氷の中に閉ざしていた。

 それでも忘れるべきではなかった。忘れるべきじゃなかったんだ。こんな大事なこと。私がどうして中高時代、あんな楽しくて輝かしい毎日を送っていたのか。どうして中高時代だけが、輝かしく思えたのか。それはひとえに、この信念があったからじゃないのか。誰かの未来になりたい。こう願っていたからこそ、私はどんなことでも乗り越えられたんじゃなかったのか。たとえ自分が凡庸で、何の秀でたところもなくて、学も差配も他の者に圧倒的に劣る――そう薄々気づいたとしても、それでも誰かの未来になりたくて、何年も何年も、日々邁進していたんじゃないのか。最後には破滅に終わったとしても――君の生き様に、意味はあったんじゃないのか?

 もう忘れない。私の氷はもう、彼が溶かしてくれた。彼は私の人生を変えた。彼は私に人生を再び与えてくれたのだ。

 

●人生は変わる、同人誌が変えた

 私はあの同人誌について素直に、人生を変えてくれた、と思っている。興味深いことだ。私の人生を決定的に変えたのは、源氏物語でも、タイタニックでも、チェンソーマンでも、ハーモニーでも、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドでも、20世紀少年でもなければ、多くて百人程度にしか読まれていない、そしてもしかしたら今後二度と表舞台に出ることもないのかもしれない、一冊の同人誌であったのだから。

 この先私がどうなるのか――それは私にもわからない。もとより怠惰で気まぐれな私にとって、何かを成し遂げるということには想像以上の困難を伴う。創作で成功を収めるのかもしれないし、社会人として普通に生きるかもしれないし、あるいは破滅を迎えて、飢えたる動物に喰われて死ぬのかもしれない。決定的に人生が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。

 それでも私は彼に感謝し続けるだろう。

 そして願い続けるだろう。

 誰かの未来となりますように。

 

●信念分析

 ところで私は怠惰な人間であり、信念であろうとも睡魔に塗り替えてしまうこともある。つぶさに分析しなければならない。

 誰かの未来になる、とは何か。

 前述した。私をみて、私の一部分でも誰かの夢となればいい、というものである。

 なぜ、誰かの未来となりたいのか。

 分からない。誰かに影響を与えたいのか、誰かを喜ばせたいのか。生得的なものか、後天的なものか。いずれにせよ、誰かに何かしてあげたい、という願いであることに変わりはない。

 私でなくとも良いのではないか。

 そうともいえる。だが私でなくとも良いと考えるのなら、それは既に信念ではない。

 誰かの未来になるのなら、創作においてでなくとも良いのではないか。

 その通り。父親としてでも、あるいはボランティアとしてでも、誰かの未来となることは出来る。しかし、出来れば、未来――生命の維持、という意味ではなくて、心の未来――を与えられる人間は多い方がいい。その意味において創作に制限はないので、創作が最も合理的な選択であると思える。

 この信念は確かなものか。

 確かであることを祈るし、過去の事例から鑑みて、これが現状で最も妥当な信念であると言えよう。ここでの妥当とは、活動的に生命を消費できる観点においてである。