2023.10.11(残81日)
十月、31日のうち11日の経過。残り20日。64.5%。
一年、365日のうち284日の経過。残り81日。22.19%。
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パートナーという合理から最も離れた存在
人はなぜ、パートナーを欲するのであろうか。
これは私にとって最も難解な問いであった。なぜか。パートナーを欲するというのは合理的思考から最も離れたものであるから。考えてもみてほしい。パートナーを設けるということはその分、時間的・肉体的・精神的・金銭的コストを要するということである。パートナーに会う時間、パートナーと共に遊び歩く肉体的疲労、パートナーという他人と行動をともにする精神的疲労、そしてパートナーとの逢瀬で消えていく金銭――パートナーとはその実、多大なるコストを払うものなのである。当然、費用には収益が伴わなければならないが、パートナーから得られる収益といえば、せいぜい肉体的快楽と、精神的満足くらい。とてもじゃないがコストに見合わない。大赤字である。故にパートナーは選択されない。
……しかし私は同時に求めていた。パートナーを。この矛盾は何か。なぜこのような矛盾が観測されるのか?
昨日、私は解を見出した。
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パートナーを求める第一目的:生殖
人がパートナーを求めるのは、三つのものを求めているが故であると考えられる。なお、強度としては上から順に大きい。
第一に、動物としての運命。生殖のためにパートナーを求めている。パートナーを求めているのではなくて、生殖を求めているのである。
なお私はプラトニックな愛というものを理解できないので、ここでは除外する。プラトニックな愛とは、崇拝に他ならないのではないだろうか。その対象は果たして「パートナー」と呼びうるのか?
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パートナーを求める第二目的:人間的本能
第二に、人間としての本能的欲求。私は以前、飲み会の場で結婚願望のある者らに「なぜ結婚したいのか」と問うたことがある。彼らは少し考えて、口を揃えてこう言った。
「子供がほしいから」
青天の霹靂である。人間は子供が欲しいのである。私には一切ない感情!
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パートナーを求める第三目的:自身の鏡として
第三に、そしてこれが私の矛盾を解消する大きい理由であったのであるが――鏡として。
パートナーというのは多かれ少なかれ、依存対象である。人間はパートナーに愛を求め、愛を与え、二人で両者を認め合うことによって、その両者の位置を把握する。つまり両者は依存し合うことによって自身の立ち位置を認めているのであるが、これこそ、私の求めるところであった。
パートナーとは、鏡であった。自身の立ち位置を確かめるための。霧中の成人社会というもので、自身が今どこに在るか、どこに居ていいのか、どうすべきなのか、私とは誰か――このような問いから目を逸らすために、この永劫解かれることのない問いを忘れるために、自身を自明なものとして映すためにあるのが、鏡たるパートナーなのであったのだ。
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第三目的の代替方法:自分で創る
ところで第三の目的には、パートナーでなくとも代替し得る方法がある。自身で創造してしまえばいい。
現実世界は脳によって構築されているらしい。そこで脳に叩き込むのである。パートナー像を。自身と独立した、他者として、しかし愛らしいパートナー像を。意識せずとも五感に現れるように。こうすればパートナーでなくとも、私は私としての鏡を手に入れることができる。経済的だしね。
ここまで19分。