まどどブログ

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2023.11.01(残60日) 労働者が人間として生きる現実的手段

2023.11.01(残60日)

 

 十一月、30日のうち1日の経過。残り29日。96.7%。

 一年、365日のうち305日の経過。残り60日。16.44%。

 

 

●労働者諸君、人間として生きよ!

 労働者に身を貶して久しいが、私はようやく、労働者でありながら人間として生きる術を確立させた。今日は同じ苦難を分かつ労働者諸君にとって少しばかりの救いとなることを願って、ここに記したい。

 

●労働者諸君、君たちは死んでいる!

 前提として、生とは変化である。動物にとって、生とは不確実の連続体である。今日は生きていられた、明日は死んでしまうかもしれない。動物はこのようにして数十億年もの長きを忍んだ。人間も動物であるのであるから、これから免れることはない。生とはそもそも、不確実なものであり、変化なのである。

 そして労働とは死である、なぜかというに、労働からは変化が失われているから。労働に変化はなく――企業や役所が朝改暮変では困る――動物にとっての生とは変化そのものであるから、故に、変化なき労働は動物として死である。

 

●労働者諸君、「次」を忘れよ!

 さて、生きるにはどうすればよいか?

 退職せよ、なんて言わない。死んでしまえ、とも。私はリアリストである。労働者のまま生きる術を語る。では何か?

 変化である。変化を日常に孕ませる。日常に不確実な、明日どうなってしまうか分からない、そういうものを植えてしまう。つまり、自然状態を再現するのである。今日はなんとかなった、しかし明日は?

 ここで注意しなければならないのは、この変化とは劇的でなければならない、ということである。子供の成長。友人との会食。家族との団欒――そんなものでは足らない。考えてほしい。労働において我々は死んでいる。死んでいる人間が蘇生するに、一体どれほどの困難が要されるというのだろう。死んでいる者には鮮烈な記憶を、AEDがそうするように、動かぬ心に送り込まなければならない!

 子供が昨日と違う言葉を話した、友人と大いに笑った、家族と和やかなひと時を過ごした。なんと堅実な! 我々の変化は不確実でなければならないのである。確実性の中に少しばかりの変化――そんなもので我々の息は吹き返さない。

 変化は劇的でなければならない。知らない者との逢瀬。上達するかも分からぬ楽器の鍛錬。突如として登山。ナビに頼らぬままドライブ。不確実。次はどうなるか分からない。こういう変化こそ命であり、我々の息を取り戻す儀式となるのだ!

 なんでも構わない。労働時間はどうせ死んでいるので考えない。通勤。退勤。休日。食事。呼吸。そういう、何気ない、死から離れているとき、不確実を盛り込む。ウィルキンソンに醤油を混ぜる。帰宅後、深夜まで車を走らせる。休日、何も持たずに北海道に飛び込む。気の狂っているほど不確実を見出す。もはや作り出す。

 そうして我々は初めて、生きていることができる。

 

●労働者諸君、生きよ!

 こうするしかないのだ。現代において、我々はあまりに動物から離れてしまった。不確実性はもはや、我々の手で生み出さなければならないのである。

 農家は? 漁師は?

 もちろん、死んでいる。生の権力は我々を従える。国家は我々を逃さない。現代において、もはや流浪すら、開拓すら許されない。誰も彼もインターネットによって露わにされ、軛に繋がれ生きている。

 しかし生の権力においてさえ、なお、支配しえぬものが二つある。死と、魂である。死による逃避は散々語られてきたが、魂――社会機構から離れた場面における自由の追求――こそ、現代社会において求められるものであると思うのは、私だけだろうか?