まどどブログ

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2023.12.28(残3日) 生きるとは何か

2023.12.28(残3日)

 

 十二月、一年、残り3日。

 

●一年の終わり

 今年も終わる――年というものはもちろん人為的なものであるので、終わるのではなくただその作為が消失するに過ぎないのであるが、しかし我々はそれを、時という概念を創り給うた人類そのものであるのだから、今年が終わることを喧伝する権利を持つ。地球が終わる、オオカミが終わる、宇宙が終わる――それを叫ぶ権利が人間にないのとは、まさしく対照的に、我々は一年の終わりを楽しむことが出来る。人為であるものにのみ、我々は干渉することが出来る。我々はオオカミにも、地球にも、宇宙にも成り得ないのである。騙るなかれ

 

●人は死ぬために生きている

 さて私はこの一年間、何を思っていただろうか。

 恐らく、一つだけ。

 人はなぜ生きるのか。あるいは、なぜ死ぬというのに生きるのか。

 死を恐れているから生きるのであるならば、なぜ死の前哨として生は語られることがないのか。安寧を求めているのであれば、なぜ死を恐れるのか。生が盲目であるならば、あるいは逃避であるならば、なぜ盲目を、逃避を已めてしまうことがないのか。

 なぜ死なずに生きているのか。なぜ死を知って、生に正気でいられるのか?

 古来の哲学者は何を語ったのか。私は何を思うのか。そして浮世は何を思っているのか――

 私は愚かなもので、問うだけ問うて考えることを捨てた。来年の課題である。が、一つだけ悟ったことがある。

 人は死ぬために、死ぬその瞬間のためだけに、生きている。

 駅のホームで哀れにも寒空に汽車を待つ幾多の人間。儚さに笑みをこぼす家族。死を忘れた労働者。子供。老人。

 みな、生きている限り、なんの価値もない。生きている限り、その存在は疑われることも、また惜しまれることもなく、もちろん、祀られることもない。

人間は死して、いや死のその瞬間において、最も崇敬を集める。癌に倒れる子の息を引き取る瞬間を見よ! 親の、医師の、看護師の、なんと温かいことか。その子はその短き生の中で、最も尊ばれているのである。それこそ神の如きに。神は何も概念ではない。死している人間、それこそ神なのである。

 誰も同じ。ホームに並ぶ労働者が突き飛ばされたら、きっとホームはとたんに怒号と悲鳴と血肉とに塗れるであろう。そのとき彼は――その寸前まで誰でもない「労働者」でしかなかった彼は――目撃者という観客を前にして、悲劇という固有名詞を得、その観客ひとりひとりの心に深く彼そのものとしての最期を焼き付ける。代替可能性は究極的に失われ、心に宿りし神と成る。

 それが死である。生きていたところで我々は量産型人間でしかない。しかし死は美しい。どんな者でも、死ぬときだけは燦然たる輝きを放つ。

 我々の生にかんして、私は解を知らぬ。しかし人間は死ぬために生きている。これだけは確かだ。

 

 違う。理性ではない。感性として、私はこの結論に至った。

 紅葉である。葉は緑であるより、紅であるほうが美しい。人も同じだろう。生きているより、死んでいくのが好ましい。理性で語ることが能わず口惜しい限りであるが、言うなれば、ホームに突っ立っている人間もいずれは死ぬ、その無常こそ、移ろいこそ人間そのものであり、無価値な生への救いであり、哀れという名の美しさである。現に、死を目前とした者ほどせいいっぱい生きようとするであろう。もうじき死ぬのに。その無意味さ。無価値さ。身震いするほどの健気さ。

 美しさ。死を目前にした者ほど儚く尊いものはない。消えゆく覚悟――

 

 そうだ。私は死ぬのだ。永続性はどこにもない。私は既に病に侵されていた――死という病に。

 病に伏して私は何を思うだろう。矢張り生に走るだろう。坐して死を待つほど、私は強くない。つまり、そういうことなのではないだろうか?

 私は既に死に向かっている。癌に侵されているのと同じように、私は死に侵され始めている。それが怖くて生にひた走る。

 それが私の生であるか?