まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2024.01.18(残348日) 呪い

2024.01.18(残348日)

 

 一月、31日のうち18日の経過。残り13日。42.0%。

 一年、365日のうち18日の経過。残り347日。95.07%。

 

 恐らく、今日ここに書くことは一生破ることの出来ない呪いとなるだろう。

 

●呪い

 先日、私は創作について人間をやめることと定義付けた。

 では人間をやめて、私は何になるのか?

 道具である。

 目的を達するための道具として、私という肉体を用いる。私の保全、私の未来、私の健康――すべてを諦め、すべてを目的のための道具と化す。私は私としての生を捨て、道具としての生に全うする。

 喉が潰れようとも、白昼に倒れようとも、血管が千切れてしまおうとも、どうなろうともかまわない。目的が達されるならば、その可能性が少しでもあるのならば。もう私は私でなくていい。私としての生はもう充分だ。

 

 では目的とは何か。私は何のための道具となるのか。

 オオカミのための。

 絶望した者たちのための。

 苦しみ悲しみ、それでもなお生きようともがく者のための。

 日本に限らない。世界中にはきっと、いるはずだ。親に裏切られ、恋すらも叶わず、友にすら見放され、誰一人、誰一人として寄り添う者も、慕う者も、夢も、未来も、希望すら失って、生きている者たちが。自分自身さえも裏切って、もはや自分が誰だかすらも見えない、そんな者たち。私だけではないはずであるし、実際そうだ。世の中はつながればつながるほど、絶望に溢れかえっている。

 どこに行けばいいのかわからない。どうすればいいのかわからない。それでも明日を歩いていく――

 馬鹿にしているのか。そんなもんじゃない。絶望した者というのは――生きている意味がわからない。明日の意味がわからない。自分がここにいる必要性を感じない。苦しいのに、悲しいのに、どうしても死ぬことが出来ないから、死ぬことすら思えなくなって、死ぬという救いすら禁じられて、なお毎日を過ごしている人々だ。貧富の差など、ここには関係ない。皆逃げたがっている。それでも逃げられない。どこにも行けない。世界は閉じられている。どこへ行っても、インターネットがどれほど普及しても、みな孤独に苛まれている。

 それでもみな、生きている。

 私はすべてを諦めてしまった。夢も恋も友も、人にも。もうどうだっていい。私の孤独は固く凍って、そのまま深く閉ざされてしまった。溶け出すことはもう二度とないだろう。すべてが叶わず、すべて裏切られ、すべてすれ違って、いったいどうして私は諦めずに生きていられようか。死ぬか捨てるか――絶望の果てに待つ道はこの他にない。

 それでもまだ、みな生きている。諦めてない者が在る。それなら私は救いたい。私は誰かの役に立ってこそ、私であるらしいのだ。そこに私が無かったとしても――それでも私は構わない。

 私が救う必要など無いのかもしれない。同じことは既にBTSが試みている。Agust Dは私よりももっと苛烈な体験をしている。

 でも、もし誰かを救うことができるのなら。

 苦しみの中で必死にもがく人がいるのなら。

 オオカミたちが守れるのなら。

 潰されそうになっているものたちを救えるのなら。

 達されなかったとしても、ほんの僅かだけでも、その可能性があるのなら。

 私は残りの人生を、その可能性に賭けたい。

 

 つまり呪いとは、このようなものである。

 苦しみ藻掻く者を、そしてオオカミを救う。その可能性に――私は私を捧げたい。

 

 

●実際上の問題

 どう救うか。救いとは何か。

 救いとは、精神的支柱、つまり生きる意義を、取り戻させることである。

 もはや慰めなど救いにならない。上を向いて歩こう、明日を生きていこう、Hold The Line――それでは理想論でしかない。何の救いでもない。実際、Aviciiは死んでしまったではないか。

 理想論で人は救えない。人を救うのはいつだって怒りであり、憎しみであり、そして諦めである。人間は自身を守り、同時に執着を捨ててこそ、真に救われることができる。

 否定、挑発、狂気――ありとあらゆる手法を用いて、彼に思い起こさせる。

 憤怒を。敵を。自らをここに追いやった者への憎しみを。

 同時に死を。執着の終点を。

 そして、生を。

 そして救うということは直感的に為されなければならない。理論ではなく直感において為されるからこそ、彼は意図せずして、つまり潜在意識として、救われるのである。

 人間の直感に訴えるものとは五感である。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。より広範に届けるのに、後者三つはあまりに近接的で難しい。前者二つを用いるのがよかろう。

 芸術である。また理性を用いてはならないので、抽象的なものは相応しからぬといえよう。例えば彫刻、書籍など。そもそも両者の両立が求められる。

 両立し、かつ、理性を用いない、思考なくして体得され得る者は?

 映画、漫画、音楽、演説、実践。

 心理学、デマゴーグ、煽動、宗教――この手法が参考になろう。

 なりふりかまってはいられない。心を殺したまま生きる者、抑圧の下にある者、オオカミたち、これを私はなんとしても助けたい。少なくとも、その可能性に賭ける。

 これが呪いだ。

2024.01.13(残353日) 人間をやめた日

2024.01.13(残353日)

 

 一月、31日のうち13日の経過。残り18日。58.1%。

 一年、366日のうち13日の経過。残り353日。96.71%。

 

●アイディアは向こうから……?

 ある脚本術の本に、このような記載があった。

 アイディアは掴むものではなくて、向こうからやってくるもの。

 これを私はようやく体得したように思う。創作というのは、人間をやめることなのかもしれない。

 

●人間をやめる、ということ

 創作というのはつまり、人間を離れることである。作詞にせよ作曲にせよ歌唱にせよ、漫画にせよ書籍にせよ絵画にせよ、その一場面において、彼は一人の人間という実体を超えている。漫画において彼は世界そのものを俯瞰するような神であるし、歌唱において彼は肉体そのものが――喉に限らず感情さえも――歌のための楽器である。絵を前にしても、詩を前にしても、彼は既に人間ではない。等身大の人間――それからは必ず離れて、彼は創作を成している。

 なぜ歌手がドラッグに走るのか。なぜ演者が共演者と結婚するのか。彼が既に彼自身から去っているから。創作者は既に肉体を捨てている。一つの「彼」――それを破って、彼は在る。

 故にアイディアは向こうからやってくるのである。それは、彼がアイディアの中に在るから。脚本家ならば、彼は既に彼ではなくて、創作世界の中の気であり水であり神であるのであるから、アイディアは自然無意識のうちに見出される。彼が彼のままならば探し出さなければならないが、彼そのものが既に世界なのである。

 

 女王蜂のTHE FIRST TAKEを観て、AURORAの楽曲を聴き続けて、私はこれを悟るに至った。

 

●確かにオオカミである私

 逆説的に、創作というのは、少なくとも私に限って、人間ではいけないのである。

 一人のサラリーマン。通勤者の一人。群れの中の、埋没した一人。親の子。人間。人間。人間。

 それではいけない。私は人間でいてはならない。オオカミでなければならない。消防車のサイレンを聞いて遠吠えしかける――それほど、私はオオカミでなければならない。

 私は既に人間ではない。それを忘れるな。

2024.01.11(残355日) 私への闘争

2024.01.11(残355日)

 

 一月、31日のうち11日の経過。残り20日。64.5%。

 一年、365日のうち11日の経過。残り355日。97.26%。

 

●怪物

 いま私は、自分と闘うときが来た。私がこれまでずっと逃げてきた自分、等身大の自分、それにようやく、挑むことが出来る。他者との比較によって。

 絵は人の絵柄を真似して描けば、自身の不勉強は自ずから浮かび上がる。歌もまた、半音ズレ、音域の狭さ、濁声、これらが他者の楽曲と比して一目瞭然、私の前に突きつけられることであろう。

 それでいい。それが正しい。そうでなければ上達などすることもない。やっと私は等身大の自分を見つめるところまで来た。

 私とは何か?

 少しばかり良い高校と大学を出て、努力を軽視し普遍的サラリーマンの道に堕ちて、同級生の立身を内心妬んで、いつか何者にかなることだけを妄想し続けて、そして現実から四年も逃避した、何者でもない二十四歳の男性。

 怪物。

 その怪物と、私は対峙している。

2024.01.08(残358日) 新しき年

2024.01.08(残358日)

 

 一月、31日のうち8日の経過。残り23日。74.2%。

 一年、365日のうち8日の経過。残り357日。97.81%。

 

 『新しき土』は面白かったよ!

 

●新年の御挨拶

 明けましておめでとうございます。今年は遂に年賀状が一通たりとも来ずに終わった。私の交友関係、推して知るべし。

 どうせ年始は怠けると思っていたのであるが、当たりであった。私はろくでもない怠惰な輩である。恐ろしいことに、私は死をも漫然と受け入れてしまうのかもしれない。

 

●今年の抱負と進捗状況

 今年の抱負は以下の五点。

①映画に触れる

 映画である。私は昨年、映画を殆ど観ていない。故に今年はしっかり観ようと決意した次第である。

 なお、現時点で観た映画は二本のみ。

②本を読む

 書籍とはインクの染みを重宝する紙である以上に、それを書いた者が確かに在る。我々が本に向かうのと同じように、その本を構成する文字の一つ一つを綴った者が、その紙面の前には確かに座っていたのである。それが三年前か、五十年前か、一千五百年か、それでも必ず書籍とは人の営みによって為されるものである。つまり、書籍とは、著者の肉声そのものなのである。

 それに気付いた者は幸いである。彼は孤独に苛まれることが無い。必ず本を開けば、そこには話者が座っているのであるから。

 というわけであるが、私は年明け、一文字とも本を読んでいない。御託と審美眼だけは確かだが、行動は何一つ伴わない。宗教家にでもなるべきであったか?

③語学を修める

 フランス語である。ドイツ語である。ロシア語である。欧州語を私は使いたい。そのためには英語である。終ぞ習得することのなかった英語と私は人生において初めて向き合うのである。第二言語の習得を橋として、私は諸語に手を出したい。

 これについては比較的真摯に向き合っている。語学というのは素晴らしい。参考書が溢れかえっている。

④生きる

 興味深いことに、齢廿四にして私の肉体は私を貶めつつある。次起きたらもう歩けないかもしれない――そんな霧のような恐怖が、私を覆っている。歩けなくなれば? 死である。私はオオカミであるのだから。

 死という病は万人を別け隔てなく侵す。若輩者も老人も、乳児さえも、死には獲物に他ならない。それに気付いているか否か――悟る、というものはその程度のものでしかない。

 私は死を見ている。肉体が私を実践的に、死に向かわせた。故に、私は生きなければならない。一秒たりとも無駄にすることは出来ないのである。

 さて、この八日間、いったい何時間をXとYouTubeに費やしたでしょう?

⑤創る

 昨年は怠惰に生きた。死ぬことばかり考えていた。それは既に生物として誤っている。生物であるのだから、生きなければならない。そして怠惰に生きることが死を誘発するならば、怠惰は捨てなければならない。

 努力である。試練である。学生の頃を思い出せ。あれこそ私にとっての生である。無から一を創り出すこと――それに私は限りなく興奮を、生を覚えていたはずだ。

 死ぬのなら創れ。創らないなら死はやってくる。

 そうやって立派な抱負を語ろうとも、私は寝てばかりいる。潜在的に私は死んでいるのだろうか?

 

 総括すれば、私は既に死んでいる。

 しかし生きる他にはないだろう。

2023.12.28(残3日) 生きるとは何か

2023.12.28(残3日)

 

 十二月、一年、残り3日。

 

●一年の終わり

 今年も終わる――年というものはもちろん人為的なものであるので、終わるのではなくただその作為が消失するに過ぎないのであるが、しかし我々はそれを、時という概念を創り給うた人類そのものであるのだから、今年が終わることを喧伝する権利を持つ。地球が終わる、オオカミが終わる、宇宙が終わる――それを叫ぶ権利が人間にないのとは、まさしく対照的に、我々は一年の終わりを楽しむことが出来る。人為であるものにのみ、我々は干渉することが出来る。我々はオオカミにも、地球にも、宇宙にも成り得ないのである。騙るなかれ

 

●人は死ぬために生きている

 さて私はこの一年間、何を思っていただろうか。

 恐らく、一つだけ。

 人はなぜ生きるのか。あるいは、なぜ死ぬというのに生きるのか。

 死を恐れているから生きるのであるならば、なぜ死の前哨として生は語られることがないのか。安寧を求めているのであれば、なぜ死を恐れるのか。生が盲目であるならば、あるいは逃避であるならば、なぜ盲目を、逃避を已めてしまうことがないのか。

 なぜ死なずに生きているのか。なぜ死を知って、生に正気でいられるのか?

 古来の哲学者は何を語ったのか。私は何を思うのか。そして浮世は何を思っているのか――

 私は愚かなもので、問うだけ問うて考えることを捨てた。来年の課題である。が、一つだけ悟ったことがある。

 人は死ぬために、死ぬその瞬間のためだけに、生きている。

 駅のホームで哀れにも寒空に汽車を待つ幾多の人間。儚さに笑みをこぼす家族。死を忘れた労働者。子供。老人。

 みな、生きている限り、なんの価値もない。生きている限り、その存在は疑われることも、また惜しまれることもなく、もちろん、祀られることもない。

人間は死して、いや死のその瞬間において、最も崇敬を集める。癌に倒れる子の息を引き取る瞬間を見よ! 親の、医師の、看護師の、なんと温かいことか。その子はその短き生の中で、最も尊ばれているのである。それこそ神の如きに。神は何も概念ではない。死している人間、それこそ神なのである。

 誰も同じ。ホームに並ぶ労働者が突き飛ばされたら、きっとホームはとたんに怒号と悲鳴と血肉とに塗れるであろう。そのとき彼は――その寸前まで誰でもない「労働者」でしかなかった彼は――目撃者という観客を前にして、悲劇という固有名詞を得、その観客ひとりひとりの心に深く彼そのものとしての最期を焼き付ける。代替可能性は究極的に失われ、心に宿りし神と成る。

 それが死である。生きていたところで我々は量産型人間でしかない。しかし死は美しい。どんな者でも、死ぬときだけは燦然たる輝きを放つ。

 我々の生にかんして、私は解を知らぬ。しかし人間は死ぬために生きている。これだけは確かだ。

 

 違う。理性ではない。感性として、私はこの結論に至った。

 紅葉である。葉は緑であるより、紅であるほうが美しい。人も同じだろう。生きているより、死んでいくのが好ましい。理性で語ることが能わず口惜しい限りであるが、言うなれば、ホームに突っ立っている人間もいずれは死ぬ、その無常こそ、移ろいこそ人間そのものであり、無価値な生への救いであり、哀れという名の美しさである。現に、死を目前とした者ほどせいいっぱい生きようとするであろう。もうじき死ぬのに。その無意味さ。無価値さ。身震いするほどの健気さ。

 美しさ。死を目前にした者ほど儚く尊いものはない。消えゆく覚悟――

 

 そうだ。私は死ぬのだ。永続性はどこにもない。私は既に病に侵されていた――死という病に。

 病に伏して私は何を思うだろう。矢張り生に走るだろう。坐して死を待つほど、私は強くない。つまり、そういうことなのではないだろうか?

 私は既に死に向かっている。癌に侵されているのと同じように、私は死に侵され始めている。それが怖くて生にひた走る。

 それが私の生であるか?

2023.12.24(残7日) 三十歳の死について

2023.12.24(残7日)

 

 一年、十二月、残り7日。

 

●三十歳の死

 人間は三十歳にして死ぬ。

 死ぬのである。生殖のために生きている動物が生殖適齢期を終えたらどうなるか――死ぬのである。魚類であろうが哺乳類であろうが菌類であろうが、正しく死ぬ。生殖出来ぬ個体は即ち老い、老いた個体は忽ちに死ぬ。

 人間も動物である限り同様に、二十代で人間としての、動物としての価値は終わる。生殖に適しているのは二十代であるのだから、それが終われば三十歳にして死ぬ。死ぬべきであるというのに、人間は社会によって延命されている、延命させられている。肉体は三十歳を境に俄に衰えるのだと云う。これが死の他に一体何であろうか。我々は三十歳で死ぬ。それ以降の人生は人工的な、偽の生である。

 偽の生に永らえる魂もまた、同じく偽の魂である。人間は三十歳にして精神的にもまた、死んでしまう。彼に備わっていた活力は、個性は、あるいは諧謔は失われ、保身のみが彼を捉え、そして保身こそ彼そのものとなる。家庭を築く。趣味を極める。あるいは社会貢献に走る。すべて保身。すべて、偽の魂がその失われた渇きを癒すために行う、偽の熱情でしかない。誰かと違うから、誰かにとって必要不可欠であるから、そんな、他社依存の中においてのみ、偽の魂は生き永らえるのである。他者との関係性においてのみ彼は彼を保つ――彼は死んでいて、ゾンビは自立し得ないのであるから。

 

 人間は三十歳で死ぬべきである。そうでなければ死んでいるのに死ぬことも能わぬ。

 いつまでも人は人を愛せない。生殖するので人を愛するのであり、生殖せぬなら人は愛せぬ。それは異性愛者も同性愛者も同じ。

 私もまた数年で死ぬのだ。皆のように。命を絶たずとも命は絶たれる。