まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.05.27 z/

2022.05.27

 

 あまりに眠い。この一週間のツケが一気に回ってきた感じだ。

 どうやら、人間はじぶんのことばかり考えていると気分が落ち込みがちらしい。楽しいことを考えるべきであると。だから私は妄想にふけったほうがいい。自分のものではなく、自分の中から湧き出る世界へと。

2022.05.26 懐刀について

2022.05.26

 

 退職届を作成しておかなければならない。

 無論、即時に退職する気は無い。手元資金に乏しいから。それでも、今の私は極めて抑圧された状況にある。いつ暴発するか分からない。もしかしたら明日かもしれない。起きて、布団の上でこう思う。「もう二度と会社の地を踏みたくない」と。そういうときはいずれ来るだろう。人間は苦痛に何十年も耐えられるよう設計されていない。拷問は機能する。

 そういうとき、願いを守る道具として用意しておきたい。その願いを殺してはならない。その願いはきっと、自分の声であり、心の声であるから。願いが殺されないよう、その願いを円滑に実行するツールを用意しておく必要がある。それが退職届である。

 つまり、自身を守るために用意しておくのだ。懐刀は忍ばせておくものなのだった。

 

 ほんとうはサイゼリヤについて長く記したいと考えていたが、あまりに疲れていてままならない。今日はこれで失礼したい。

 ああ、俺はいったい何をしているんだろう。

2022.05.25 シン・ウルトラマンについて

2022.05.25

 

 シン・ウルトラマンを見た。とても面白かった。その興奮を忘れぬうちに、ここに書き残しておきたい。

 なお、ネタバレはしない。仔細に書いている時間がない。

 

  • ちゃんこ鍋

 全体を通して、「ちゃんこ鍋映画」という印象を受けた。とにかく物語のテンポが早いし、正直何が主題なのかもよくわからない。シン・ゴジラはストーリーとして非常に筋の通っていたものであるが、この映画はそうでもなさそうだ。少なくとも私は、何か一貫したものを感じなかった。

 映画に親しくないので分からないが、昭和の映画とはもしかしたらこういうものだったのかもしれない、などと思ったりもした。知らんけど。

 

  • 映像と脚本の化粧

 はっきり言って、私はこういう映画が苦手である。単なる娯楽物、肉体的な快楽としか映らないためだ。

 それでも楽しむことが出来た。高揚感に包まれていた私が在った。この高揚は何から来るか。それは明確で、映像と脚本である。

 迫力のある要素が散りばめられ、ふんわりとしながらも力強く進行する脚本を用意することによって、かの映画は人を沸き立たせる。簡単なことではない。人を魅せるもの。それを的確に探し当てるのは至難の業だ。東京駅で砂金を見出すような。

 

  • 音楽の力

 音楽こそ正義である。米津玄師の『M八七』。素晴らしい。ただでさえ素晴らしい楽曲なのに、それが映画館で、大音量で流されてしまえば、どうか。感銘の他に、感情は残らない。その楽曲が、それ以外のものをすべて拭い去ってしまう。

 ああ、音楽は恐ろしいことよ。そう思った次第である。

 

 よい映画であった。

 終わり。

2022.05.24 生き方について⑫ / 時間のNASAについて

2022.05.24

 

 時間がない。とにかく時間がない。

 足らぬ足らぬは工夫が足らぬ。そんなことを言われても、足らないものは足らないのだ。具体的に、実務と睡魔によって時間が吸い取られている。なお、労働は時間に含めない。労働は単なる無である。時間を分解して消し去ってしまうブラックホールである。彼の出現によって私の人生は半分程度になってしまった。そこに時間などはじめから存在しない。故に労働は時間と呼ばない。

 では実務とは何か。ここでの実務とは、人間として生き抜くための手段のことを指す。例えば節税とか年金とかね。私の興味からは遠く離れているものの、現代社会に生きる上で、どうしても避けられない。故に時間を取られる。

 そして睡魔。簡単なことで、出勤・退勤時はずっと眠っている。意識が飛ぶのだ。起きていられない。電車のかすかな揺らぎは赤子であったころを思い出させる。母が腕の中であやしていた、あの感覚とそっくりだ。故に、意識を失う。こちらとて、寝てしまいたいわけではない。本も読みたいし音楽も聴きたい。それでも眠る。

 さらに私は睡眠時間を削るべき人間ですらない。生活リズムの乱れは気分の乱れ。ジェット気流を巻き起こす。つまり、なるべく正確で同一の生活リズムを刻む必要がある。以前「寝なければ良い」と述べたように思うが、それは明らかに誤っている。数日であればまだしも、長い目で見ればアウトプットの質・量ともに低減することは目に見えている。悔しくとも、寝なければならないのだ。

 ああ、動物であることをこれほどまで恨んだことはない。食も睡眠も生殖も必要なければ、私はどれほど理性の求めに従順であっただろうか。食事も睡眠も生殖も、本能に基づく情欲であるという観点で無意味だ。それでも、私はこれらに抗うことが出来ない。これらを抑圧すれば、理性をも抑圧してしまう。残念なことだ。

 この状況で可能なものとしては、恐らく一つで、隙間の無駄な時間を削ることであろう。ここで言う「無駄」とは、ぼんやりと物思いにふける時間を含まない。SNSや動画を狂ったように見続ける、そのような時間のことを指す。あれらを見つめ続けるのであれば、天井でも眺めておいたほうがよほどマシだ。

 時間の無さを嘆きつつ、私はいま出来ることに目を向けるべきなのだった。

2022.05.23 ゆるさない

2022.05.23

 

 許さない許さないゆるんさないゆるさないゆるさないあゆるsないゆるさないゆるさないゆるんさあいゆるさないゆるさないうyるsんさいゆるさないゆるsないゆるえないゆるさなおゆるさないゆるさんさいゆつあsにゆあうんさいゆあすあにぃあおすちゅあんさいおっゆsんずあしゅゆsなすあおあゆんじゃあ「さゆさうあゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆあすにゆるさにゆるんさいゆうさのゆうえdない「つつぁにゆねいあじゃいあsだゆrねうあいあゆrmそz;くぁjtんsjqぁp」jんくえjぢおえlsl」。

2022.05.22 堕落した後の対処について

2022.05.22

 

 この土日は腐ったような土日だった。何もしなかった。ただ布団に横たわって怠惰に過ごした二日間であった。

 どこまでも堕落した二日間であった。

 

 ここで以前の私であれば、自身を糾弾し、「どうせ未来はないのだ」などと自暴自棄の宣言を為したことだろう。しかし私は同じ轍を進むほど愚かではない。終わったことは素直に受け入れるのだ。

 仕方ない。この二日間はどうしても怠惰にならざるを得なかった。もうそれは仕方ない。この二日間で得たことも、ないわけではないだろう。

ウクライナ情勢。恋。佐村河内守の真に凡庸な様。人間の醜悪さ。カクさんの愛らしさ。動物たちの麗しさ。音楽の粒子たちのせせらぎ。自らのアウトプットを——自らの子を——ないがしろにされることへの、情動的な怒り。

 これらを得たのだ。得たのだから、恥じるべきではない。

 が、反省はすべきだ。虚無の時間は多くなってしまった。振り返りと対策。考えるべきであろう。

 そして、なぜ私はこの二日間、堕落せざるを得なかったのか考える。何故か。

 恐らく、二つ。一つは生活リズムの崩壊の反動。四時間睡眠を続けた後の休日である。活力を吸い取られていても不思議ではない。

 もう一つ。労働からの隔絶。実家というものは危険だ。労働そのものを認識の外に追いやってしまう。敵は隠れているに過ぎないというのに。

 対策。前者。正しき生活を。いくら労働が憎かろうと、いくら時間が惜しかろうと、私そのものの魂を削っては本末転倒である。心を保て。労働を潰すために。

 後者。思いつかない。業務内容の振り返りとか? でも、今回はたぶん前者のほうが強かった気がする。

 

 潰せ。潰せ。労働を。私はきっと作家になれる。売れるかどうかは別として、作家としての気概は備わりつつあるはずだ。自身の文章をかき回されることに、聳えるほどの憤怒を覚えたのだから。

 知らんけど。

2022.05.21 旅行と内外について

2022.05.21

 

 私は幸いだ。こうして、このブログを毎日記すことが出来るのだから。

 夢もなく希望もなく、ただ日々を消費していく。このブログがなければ、私の人生はきっとそうなっていた。私の救いはどこにもなかった。家族にも友人にも、誰にも、どこにも。

 だから幸いだ。私には救いがあるのだから。

 

  • 旅行

 私は旅行が好きである。色々なところを巡って、色々なものを見て。色々なものを聴いて、色々なものに触れて。色々な、新しいものを私の中に取り込んでいく。あるいは等しく対話する。あるいは、ただ傍観者として、温かく見守る。そうして、新しいものと、自分との中に接点を持っていく。そういう旅行が、何よりも好きだ。

 以前、私は旅行を「現実逃避」と定義づけたが、それは全く正しいと言えない。旅行とは現実逃避ではない。あらたな現実を得る行為なのだ。決して逃れているのではない。自分の現実を拡張しているに過ぎない。

 

  • 心の旅を!

 ところで、旅行には外的なものと内的なもの、その二つが存在する。前者は、一般的に広く知られている「旅行」である。肉体の旅、と言い換えても良いであろう。文字通り、自身の肉体を運ばせて、肉体的な感覚を以て様々な事物と接続していくものである。

 では後者は? 後者は、心の旅である。小説や物語。漫画。絵画。音楽。何でも良い。そういう作品を訪ね、触れる。あるいは心そのものを旅しても良い。目を閉じて、自分の内側の世界を闊歩する。そうして、心を通して旅をする。家から出る必要もない。自宅で良い。自宅にいながら、旅をするのだ。

 どちらも旅行だ。私の愛する旅行。現実を推し進めるのだ。

 この数年間、私は後者にも目を向けている。

 

 それだけ。