まどどブログ

普通の男子大学生が、有名作家になるか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.09.25 「私とは誰か?」という問いについて

2022.09.25

 

  • 私とは誰か?

 私とは誰か?

 これについて、「私は〇〇です」と、識別記号を発する者と対話を持つことは出来ない。名前というのは単に「私はこのように識別される」という記号に過ぎず、私という存在を説明しているとは言い難い。無論、他の名前を与えられているのであれば、また異なる「私」の出現することは考えられようが、それでも「私」そのものが変質することは考え難い。故に、名前は私を他者から判別する手段であっても、私そのものを指し示す言葉では決して無い。

 では私とは誰か? 私とはどのようなもので、私とはどのように説明されるべきか?

 ところで、人は多くの場面で、仮面を被って生活している。いいえ、私は仮面を被って生活していません。いいえ、貴方もまた、仮面を被っています。例えば地元の友人に対する「私」と、家族に対する「私」、そして大学や職場の同期に対する「私」とは、明らかに異質なものである。地元の友人にはひどく下品な会話を愉しむ人間としての一面を見せつつ、家族では親に従順で大人しい人間として振る舞う。そして職場の同期には、穏やかで理知に満ちたような素振りを見せたがる。人間は場面に応じて、環境に求められている「私」を見せる。つまり「私」はその場に応じて変化し、留まるところを知らない。

 では私とは一体、誰のことを指すのか? 揺れ動く「私」の中で、どれが自己に立脚した「私」なのか? そもそもすべて私なのか? では、なぜ「私」は変化するのか?

 家に居るときの「私」が私なのであろうか。しかしそれも、あくまで家という環境に求められた「私」でしか無いのではないだろうか。家という隔離された空間において、あくまで肉体の緊張を緩め、健全な状態で保存するため、コントロールされた「私」を演じているに過ぎないのではないだろうか。

 さて、私とは誰なのか。あるいは、誰の書を読めば、私を理解できるのだろうか?

2022.09.24 日本の衰退と民主主義について

2022.09.24

 

  • 日本の意思決定者:全国民

 日本は民主主義国家であるか?

 言うまでもなく民主主義国家である。GHQによる修正を経て、日本は疑う余地なく、国民が主権を持ち、国民が選挙によって政策を決定できる国家となった。その原則は戦後以来、一切変化していない。少なくとも、各種メディアの自由が確立されており、かつそのメディアの調査と選挙結果とが近似していることから、選挙が概ね公正に行われていることは明らかである。いくら自由民主党が圧倒的な勢力を占めており、もはやその内部での政策討論がそのまま意思決定機関となっていようとも、それを是認しているのは国民である。

 そして過去の政策は、明らかに日本国民の選択である。例えば集団就職という形で地方の若者を都市に「徴収」し、地方の衰退を招いたのは明らかに日本国民である。また、国鉄民営化や郵政民営化など、国営企業の民営化を進め、選択と集中を加速させた結果、地方インフラ、そして地方経済の弱体化を招いたのは明らかに日本国民である。さらに、人材派遣を拡大させ、平均年収の低減とワーキングプアの増大を許したのは明らかに日本国民である。何もかも、現代の衰退を招いたのはすべて日本国民である。政府の意思決定に何らかの問題はあったのかもしれないが、それを是認したのは日本国民である。

 

  • 日本国民は主権者たり得るか?

 それであるというのに、なぜ日本国民は現状に憤りを覚え、政治家を呪うのであろうか。私には理解できない。我々のような、当時選挙権を持たなかった若者であればまだしも、小泉政権の時代に選挙権を有していた人間は多く在る。そのような年代からも、現状の衰退を——まるで被害者のように——憤る声は多く聞こえる。理解に苦しむ。現状があるのは貴方がたの責任である。現状が苦しいのは貴方がたの選択が故であり、自らを呪うべきである。少なくとも、すべての責めを政治家に見出しているのは愚かと言う他ない。

 現状、すべての責を政治家に負わせることが出来るのは、以下の者に限られる。政府の中央集権的政策に一貫して反対の声を挙げ続け、中曽根政権にも小泉政権にも——果てには安倍政権にも——支持を与えなかった者。当時に選挙権を持たなかった若者。以上。その他の者は、政治家を糾弾する前に、自らの選択を懺悔しなければならない。懺悔を経て、自責の念を抱いてこそ、民主主義は正しく機能する。

 それが出来ないのであれば、主権を放棄したほうがいい。政治はお上のもの。我々には関係ない。自責を放棄するというのは、そう主張しているのと等しい。まさしく封建主義の体現者、と呼ぶべきであろう。民主主義に対峙する封建主義の守護者というのは、日本という歴史ある大地に相応しいではないか。

 その際には、私も民主主義の放棄を手伝おう。日本の風土に民主主義は馴染まない。日本において、政治はどこまでもお上のものとして、民衆から隔離すべきである。それが我々にとっての幸いとなる。

 

  • 補記:日本は「衰退」しているか?

 なお現状の日本が真に「衰退」しているかどうか、私は知らない。そもそも何を以て「衰退」と見做すのか。人に溢れている環境のとりわけ憎い私からすれば、日本の「衰退」はむしろ「収斂」と見做すことも出来る。

 また、データを根拠とするのも、環境の差異を十分に考慮しなければならないので、議論としては危うい。例えば平均年収の低減については、高齢者世帯と独身世帯、そして働き方改革の影響力を排除しなければ論ずることすら出来ない。バブル期の——文字通り死ぬ気で——がむしゃらに働く環境と、現状の残業を悪とする環境とでは、同じ賃金水準になるとも思えない。

 まあ、私としてはこのまま「衰退」していただいたほうが有り難い。働きたくもないし、五月蝿いのも必要ない。

2022.09.23 人間のエンジンたる憎悪について

2022.09.23

 

  • 効率的な活動を実現するためには?

 人を最も駆り立てるエネルギーは何か?

 糖分であろうか。タンパク質であろうか。塩か、胡椒か、チョコレートか。あるいは涙。あるいは悲しみ。あるいは喜び。あるいは快楽。あるいは慈愛。あるいは恍惚。あるいは睡眠。

 そのどれでも正しく、またそのどれでも無い。最も人を駆り立てるエネルギーとは、憎悪である。何故か。憎悪という感情だけが、人が自己という殻を破り、他者に対して何らかの影響を及ぼそうとするエンジンと成り得るから。

 

  • 「活動」とは何か?

 そもそも活動とは何か。活動とは、どのように定義されるべきか。

 私はこれを「他者に何らかの影響を及ぼそうとする行為」と考える。職場で仕事をする。上司の宴席に付き合う。パートナーの指輪を選ぶ。小説の設定を考える。絵を描く。オタク仲間と映画を何度も見に行く。これらは明らかに、他者に影響を及ぼそうとしているがために発生する行為である。影響を受ける第三者が必ず介在しているのだから。

 特に他者に影響を及ぼすつもりもないのであれば、人生は容易い。家でずっと眠っていれば良い。自宅の近くを誰とも会わずにランニングしていれば良い。美味しいものを独りで食べていれば良い。しかし人間はそうしない。少なくとも、多くの人間は何故かそれを望まない。何かしら活発な——他者との交流を持つような——活動を我々は望む。それは多かれ少なかれ、誰かに影響を与えたい、と考えているからに他ならない。それが我々にとっての「活動」である。

 なお、寂しいから、というのは説明として不足している。寂しさの解消を望むのであれば、軋轢の発生する余地はない。ただお互いに好き勝手言って、お互いに意見の対立したまま、それを解消すること無く別れるだろうから。人間に「喧嘩」が発生するのは、お互いがお互いに自身の主張を受け入れさせることによって、お互いの影響力を行使したいが、その影響力が重複しているので、どちらの影響力を優先させるか争うことによるものである。確かに「寂しい」という感情はあるが、それはあくまで活動の契機に過ぎず、全容ではない。

 

 これを踏まえて、議論を進めたい。

 

  • 憎悪の他のあらゆる行為、感情、栄養素:活動の燃料

 他の感情や栄養素というのは、あくまで自己を満たすものである。確かに喜びや美味たるものなどは、自身を幸せな状態へと運び、満たす。しかし、それらはただ満たすに留まっている。自己を満たすだけで、動かさない。仮に幸せや快楽が自身の中に満ち足りたとしても、それはただ「満ちた」という状態を示すものでしかなく、そこから自身をどこか別の場面へと運ぼう、という原動力には到底成り得ない。

 正確に言えば、快楽などは単に原動力の燃料であって、原動力、即ちエンジンそのものではないのだから、そもそも快楽が自己を動かすことは出来ない。例え自己を快楽や栄養素といった燃料で満たしたところで、エンジンが欠けていれば「私」という機械は絶対に動かない。

 

  • 憎悪:活動のエンジン

 そしてエンジンと成り得るたった一つのものが、憎悪である。そもそも憎悪とは、自身の不利益を他者の責めと見出し、その不利益を発生源たる他者に被せようと企むことによって発生する、極めて攻撃的な感情である。故に、憎悪は自己の中に留まらない。憎悪を抱くことによって、人間は他者に多大なる影響を及ぼそうと考える。

 例えば、親から虐待を受けた子供が居たとする。その子供はただ悲しみ、自身の悲惨な運命を嘆く。その場合、そこに状況の変化は発生しない。悲しみというのは自己の中で満たされる燃料であるので、子供がいくら泣き喚き、悲しみを募らせたところで、自身の中にただ悲しみが満ちていくだけで、その子供は決して動かない。ここで憎悪を抱いたら、子供はどうだろう。憎悪を募らせた子供は、高い可能性で親に対する復讐を試みる。例えば親を殺すかもしれないし、親を歪曲させた原因を—–ごく最近話題になっているようなケースのように——絶とうとするかもしれないし、あるいは、自身の成功を以て親を罵倒しようと考えるかもしれない。直接的にせよ間接的にせよ、憎悪を抱いた子供は、その憎悪の対象たる親を虐げようと企む。これが憎悪である。子供は憎悪を抱くことによって、自己という閉ざされた世界から脱却し、親に危害を加えよう、つまり他者に影響を及ぼそうと志す。

 何が言いたいか。動きたいなら憎悪を抱け。自身を穢した者は犯せ。それが人間にとって、最善の策である。

 

  • 憎悪の他に依る活動は効率的か?

 なお、厳密に言えば、憎悪の他を駆動機関に据えても動くことは出来る。例えば「楽しい」という感情をエンジン賭して小説を書くことも出来る。

 が、それは凡人にとって極めて非効率的である。前述のように、「楽しい」という感情は自己の内部で完結するものであり、いわば燃料である。その燃料自身で動くことはないので、何らかの方法で燃やしてやる必要がある。そしてその方法は、明らかに自己の内部で見出されなければならない。

 いや、平たく言おう。「楽しい」という感情は自分の感情である。自分の感情だけで活動するのは基本的にとても難しい。この場合、他に「楽しい」ことが発見されれば——そして現代においては容易く発見されるものですらある——その活動は速やかに終焉を迎える。それを防ぐには、その活動に何か特別な価値を見出し、そして信じ続けなければならない。群れる動物である人間にとって、客観的な指標の無いものを信じ続けるというのは何より苦しい。「楽しい」という感情のように、自己の中で完結してしまうものを第一目的としてしまうと、むしろ大いなる苦しみすら負うことになる。凡人には耐え難いほどの。

 無論、決して「楽しい」といった感情を排除すべきではないし、食事も睡眠も疎かにすべきではない。それらは燃料として不可欠である。燃料が無ければエンジンは動かない。しかし矢張り、エンジンが一般的に憎悪であることもまた、人間は自覚すべきである。憎悪なき活動は——特殊な耐性を持たない限り——どこかで破綻する。

2022.09.22 ロシアの国外逃亡トレンドについて

2022.09.22

 

  • 国外逃亡トレンドは国家の命を奪うか?

 ロシアから国外へ脱出を図るものが多いという。現に、航空機の価格はここ一週間、明らかに高騰している。例えば成田-ホノルル便のエコノミーが4人で45万円程度なのに対して、それより明らかに距離の短いであろうモスクワ-トビリシ便は同様の条件で55万-60万円を数えている。トビリシ便に限らず、コーカサス・バルカン諸国の便は平時の五倍程度にまで値上がりを見せている。また一昨日は通常の価格帯であったところ、昨日になって極端な値上がりを見せた、という情報から、昨日の発表が何らかの影響を及ぼしている可能性が考えられる。また同様にロシアの鉄道も相当の需要を見込んでいる、ジョージア国境で渋滞が発生している、といった情報もあるので、国外への脱出を考える者が比較的多く居ることは事実として認定しても良いように思われる。

 ただし、ロシア国民が一億人以上も存在することを考えれば、それが速やかにロシアの国力低下に繋がるとは言い難い。例え国外に百万人逃亡したとしても、それは率に直せば一パーセントでしかない。無論、一パーセントでも打撃には成りうるものの、国家としての致命傷、とまでは言えない。それは大日本帝国が証明している。この脱出劇をお祭り騒ぎとして捉えるべきではなく、依然として苛烈な世界情勢の続くことは覚悟すべきである。

 それはさておき、現状でロシア人が国外逃亡を図るとして、私は一点懸念していることがある。北方領土からの侵入である。

 

  • 「二重国内領土」は救民の女神となるか?

 他国の状況は分からないものの、北方領土はロシアと日本とが主権を争う土地である。ロシアは無論、ロシア領として認識しているし、日本は日本固有の領土であると主張している。故に、ロシアにとっても、日本にとっても、北方領土は「国内領土」として認識されることとなる。そして現に、北方領土からの亡命は非常に複雑な問題として取り扱われることも知られている。例えば昨年、国後島から泳いで渡った亡命者について、あくまで日本の公的な立場では「国内移動」であることから、その亡命の扱いについて難儀したらしい。当然ながら解釈はどうとでもなるのであろうが、少なくとも北方領土から日本へ渡ることが公的に「国内移動」であることは変わりない。

 そして現状、ロシア国民が直接他国へ逃亡することは困難である。少なくとも、現状のロシアで部分的にも動員令が発出されている以上、兵役対象の男性が気軽に海外旅行を楽しめるとは考え難い。表面上は禁止されてなくとも、ロシアなので、どのような手段で妨害を試みるか分からない。直接の他国への逃亡は大きなリスクが伴うことが予想される。現に当局は海外への移動を希望しないとしているし、兵役対象の男性は航空券を取ることが困難になっているという情報すらある。政権にとって、ロシア国民の海外への移動は明らかに望ましい行動ではない。

 ここで私は考えた。国内移動の二重連鎖であればどうか、と。例えば、サンクトペテルブルクやモスクワから航空機や鉄道等を乗り継ぎ、国後島まで到達する。そして国後島から、漁師や国境警備隊に金を握らせ、あるいは泳いで、野付半島羅臼町標津町に渡る。これが実現すれば、なんと一度も国境を跨ぐこと無くロシアから日本へと渡ることが出来る。これが国内移動の二重連鎖である。北方領土という二重国内領土を利用することで、直接的な海外逃亡を避けつつ他国への脱出を実現させる。

 無論、これが容易に実現するとは考えない。北方領土には相応の兵力が配備されているし、第一、国後島から逃亡する手段が確立できる保証もない。しかし論理的には可能である。また、ウクライナへの侵攻後、予想だにしない出来事があまりに多く起こっている。もはや何がどのような順序で発生したとしても不思議ではない。いくら可能性が低くとも、標津にロシア人の溢れる光景もまた完全には否定できないのである。モスクワの金持ちがクナシルの貧乏漁師を金で釣ることなど、難しくもないだろうから。

 

  • 余談:ロシア難民の可能性

 それにしても、ロシア難民——戦火に遭ったわけではないが、国外逃亡を図らなければならない時点で事実上の難民である——の可能性を真実味を持って考えなければならない時代が到来するとは、俄に信じ難い。朝鮮難民については古くから語られてきたが、まさかロシアという安定した大国が、しかもたった半年で、不穏な空気漂う国家と成り果ててしまうとは。私の認知バイアスであると信じたい。

 ところで、ベトナム戦争イラク戦争の際、アメリカはどうだったのだろうか。

2022.09.21 一日の過ごし方を決定する二つのアプローチについて

2022.09.21

 

  • 一日の色分け:時間先行型アプローチ

 日常の過ごし方について、私は二通りのアプローチが可能であると考えている。

 第一に、時間先行型アプローチ。これは時間によってタスクを割り振り、その日のタスクの実効性を検討するというものである。平たく言えば、予定帳型、とでも言えば良いだろうか。午前七時起床、午前八時から九時ランニング、午前九時から十二時まで作業……というように、時間に応じてタスクを書き分け、振り分けていくのだ。そして最終的に一日に達成できるタスクを考慮し、書き出す。

 これのメリットは言うまでもなく、時刻によって日常が秩序だったものとなることにある。一日というどこまでも続くように見える平地に、時間とタスクを対応させることで道を作る。一日を通りやすくする方策でもある。

 そしてデメリットは二つあって、硬直性に直面しやすいことと、時間とタスクとの整合性を図るのは定性的な見積もりに留まってしまうことである。人間であれば誰しも起床が遅れる、食事が遅れる、など、予定の変更が起こるものである。このアプローチでは、そのような変更の発生するたび、時間とタスクの割り振りを見直さなければならない。それは非常に手間である。また、時間とタスクとの対応は必ずしも定量的なものではなく、個人の感覚に依るところが大きい。一時間で二千字書ける日もあればそうでない日もある。それは誰も知らない。にも関わらず当人は時間とタスクとの対応を余儀なくされる。故に、時間とタスクとが見合わず、終了させることが出来ないまま持ち越すという事態も発生する。

 

  • 一日の色分け:タスク先行型アプローチ

 では、他のアプローチとは何か。

 第二に、タスク先行型アプローチ。これは一日に終えておくべきタスクを設定し、それを終えることを一日の目的と為すことである。例えば一日五千字をタスクとして設定し、それを達成することを一日の目的と為す。言い換えれば、それが終了するまで一日を終了させることが出来ない。これがタスク先行型アプローチである。

 これのメリットとしては、タスクの達成が殆ど約束されているところにある。文字通りタスクを終えられなければ一日を終えられない。人間はタスクの終了を見るまで、徹夜してでも活動することになろう。タスクの大いなる前進が期待される。

 一方、これのデメリットとしては二つあり、怠惰ゆえに計画的なタスク遂行が為されない可能性があることと、タスクの見積もりがしばしば非現実的な領域に突入することである。怠惰なものというのは根まで怠惰で腐っていて、基本的にタスクの終了時刻が見えてきてから焦りだす。一日であればこれは夜に当たる。朝は遊び呆けて、眠りこけて、夜になって何もしていない自身に焦る。そうして生活リズムの混乱が発生し、やがて常態化する。怠惰な者にとって、これは自身の健康を犠牲にするという意味で諸刃の剣でもある。また、「一日」という漠然とした期間においてタスクを設定するので、しばしば人間は過多なタスクを設定し、結果として一日の様態は地獄と化す。

 

  • どちらが優れているのか?

 では、以上のうち、どちらがどのように優れているのか。どちらを人類は選択すべきか。

 恐らく、性格に依るのだと思う。自身の中に確固たる掟を持っていて、自律に何ら困難を伴わない者であれば、時間先行型アプローチで一日を規則正しく過ごすことが望ましいように思われる。自律の徹底しているものであれば、自らの設定した予定を無視して

 そして怠惰に溢れていて、規則正しい起床に多大なる困難を伴うものであれば、タスク先行型アプローチがお似合いである。予定を設定したところで基本的に破られるのだから、一日に達成すべきタスクのみを念頭に活動するのが良い。調子が良ければ夜は遊戯の時間となろうし、調子が悪ければ徹夜が待っている。

2022.09.20 人を決意させる些細な日常について

2022.09.20

 

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 恋の冷めるときというのは、ほんとうに些細なものが原因であると謂う。彼氏が茶碗に米粒を残したまま食事を終えた。彼女の携帯電話の待受画面が虫であった。髪が跳ねていた。化粧が崩れてアシンメトリーであった。服がなんか変であった。歯に何かが挟まっていた。唇が乾いていた。話し方が何だか気持ち悪くなった。などなど。無論、それが別れを決めるたった一つの要因、というものでも無いだろうが、案外、恋の終わりを告げる天使の知らせというものは、他者から見れば不可思議に思えるほど些細でくだらないものなのだ。

 そして恋に限らず、人が何かを決心するとき、その最終的な要因というのは取るに足らないものばかりである。小説を書き始めたのは、どうしようもなくつまらない映像作品を視聴して、これが商業として許されるのであれば私が何を書こうとも許されないわけがない、と考えたから。漫画家になろうと思ったのは、就職で失敗したとき、たまたま友人に漫画を見られて、たいそう褒められたから。音楽の道を進もうと思ったのは、偶然好きなアーティストが引退を宣言し、その最後の曲がどうにも自らの心境と重ねるものであったから。海外移住を決めたのは、たまたまSNSで知り合った現地人と意気投合してしまい、移住を強く勧められたから。その道を考えるまでには数多の葛藤があっただろうが、最終的にその道を選んでしまったのは、誰にでも起こりうるような、小さな日常のワンシーンを見てしまったから。そうして人間は、ほんの小さな出来事に人生を左右されてしまうのである。

 

 そしてこれは何も明るい事柄に限らない。家族と離れて暮らそうと考えている人間が、それを決心したのは、家族が冗談めいて言った、心無いほんの一言のせいであったのかもしれない。

2022.09.19 睡眠という正義について

2022.09.19

 

  • 睡眠という正義

 睡眠こそこの世にたった一つ定められた正義であるということは周知の事実であり、睡眠を妨げる人物、社会構造など諸要素はすべて破壊されなければならないこともまたご承知おきの通りかと思う。

 しかし現実に、睡眠を妨げる要因を破壊することは罪とされている。例えば我々は睡眠を妨げる上司を破壊すると殺人罪に問われる。これは異様なことのように思う。我々は睡眠という正義を果たさなければならないというのに、その正義の遂行を成せば罪人として自由を剥奪される。

 これではいけない。我々はいつまでも眠り続けなければならない。己の求める段階において、己の求める空間を占めて、己の求める時間を堪能しなければならない。これが我々人類に与えられた正義である。正義は為されなければならない。とりわけ私のように、眠ることの他に娯楽の乏しい人間であれば、正義の重みはもはや人生そのものの重みと等しくなる。それを妨げるものは決して永らえてはならない。滅びなければならない。

 ただし、現に滅びなければならない対象は自らの使命を、即ち滅びなければならないという使命を自覚していない。では、どのようにすれば己の使命を理解し、その崇高さに涙することが出来るであろうか。悩ましい限りである。子守は親の支配下にあるべきものであり、私の手に負えるものではない。