まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2023.01.31(残334日) 会話について

2023.01.31(残334日)

 

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  • 人との会話、難しすぎる

 最近、人との会話の成立を見ないことが多くなってきた。どうにも意思の疎通の達成に何かしらの困難を抱えているような感覚が本能的に私の中を走る。平たく言えば、話が噛み合っていない。この場合相手か私かのいずれか、または両者に原因を求めなければならないのだが、基本的にどの人と話していても同様の状況に追い込まれることから考えれば、原因の大半は私に帰するものなのであろう。仲良しだね。

 ではどうして、会話が成立しないのか。考えてみよう。

 

  • 会話:相互の関心

 そもそも会話とは何か。会話とは複数によって成立する意思疎通のことである。では意思疎通とは何か。意思を伝えることである。意思とは何か。伝えるとは何か。複数とは。成立するとは。哲学の気配が忍び寄ってきた。簡略化のため、ある程度の字義を飲んで、ここでは以下のように定義したい。

 会話とは、話し手と聞き手の参画することによって成立する一種の交流である。この定義から鑑みれば、そもそも話し手と聞き手が双方に興味を抱いていない限り、会話は成立し得ない。

 そして興味深いことに、私は最近、他者への興味というものが徹底的に欠落している。他者に対してどのように興味を持てばよいのか、その心積もりを忘却の彼方へと追いやってしまった。他者に興味がないので、他者の話す内容にも基本的に興味がない。興味がないことには興味がないような回答しか出来ない。結果、話が噛み合わない。このようなからくりが、この問題の背景には潜んでいるのであろう。

 

  • 会話ベタの解決策

 では、どのようにこの問題を解決するべきか。

 どうしようもないと思う。興味のないことに時間を割くのは時間の無駄だ。

2023.01.30(残335日) 現状を考えることについて

2023.01.30(残335日)

 

  • 考えるな、ただ走れ

 この数年で私は個々心に誓ったことがある。

 このようなことをしていて、いったい何の意味があるのだろう。このようなことに時間を割いて、いったい効果はあるのだろうか。

 そのような問いは基本的に時間の無駄である。問うまでもなく、実行しなければならない。それは何故か。

 そもそも意味や効果というのは現状で測ることが出来ず、未来になって初めて顕現するものである。人間は未来を予測できないので、現状でそのようなことを考えていたとしても、その思考そのものに意味がない。無論、現状の点検や改善といった生産的な思案は求められているが、そのようなものではなく、ただ意味がない、効果がない、と悩むのは、生産性という観点で無意味である。

 むしろ、このような「問い」は甘えである可能性すらある。行き詰まった現状を「意味」なるものに転化して中断へと逃げる。甘えである。甘えは捨てなければならない。甘えていたところで、誰も助けはしない。我々はただ走ることしか出来ない。

2023.01.29(残336日) 『ミッション・インポッシブル』の感想

2023.01.29(残336日)

 

 

  • ’M:I’ の感想

 先日、初めて『ミッション・インポッシブル』を観た。その感想をここに。

 裏切りに次ぐ裏切りが我々を飽きさせない。スパイものはかくあれ、という迫力を感じた。

 映画という表現技法の特性を極めて積極的に利用しており、脱帽の感を抱いた。緊張感を背景や無音、長回し、汗の滴りで表現する。ハントの発言とジムの真実とを交互に映すことで、ジムの悪行を明らかにすると同時にハントの真意を曖昧なものにして観客に期待感と不安とを与える。などなど。

 一方で、TGVのシーンには無理を感じた。ドーバー海峡のトンネルに差し掛かるところだと言うのに、車掌は何をしていたのだろうか。そんなことを思ってしまうのは、私が日本人だから?

 

 『トップ・ガン』でも思っていたが、トム・クルーズは怖い。いつ如何なるときでも目の奥が笑っていない。常人離れしているところも何だか怖い。スタントマンを殆ど使っていないなんて。人間味を感じない。確かに人間離れした役を演じるなら彼しか居ないだろうが——本当に人なんだろうか。本当は宇宙人か何かじゃないのか?

 

以上。

2023.01.28(残337日) 大人の嗜みについて

2023.01.28(残337日)

 

  • 大人の嗜みについて

 大人の嗜みというものがこの世には確実に存在する。成熟した個体でなければ楽しめないような代物のことである。とりわけ三大・大人の嗜みとして、以下のものが挙げられることであろう。

 酒。煙草。そしてセックス。

 そのすべてを体験して——体験しなければ論ずることは出来ない——私は思ったことがある。

 飽きた。

 典型的な、憧れで済ませておけばよかったもの。作品のように。

 あれほど輝いて見えた星々。近づいていれば何ということはない、ただの砂埃であった。

 

  • 大人の嗜み:野蛮な勲章

 では何故、飽きるのか。簡単なことだ。大人の嗜みというものは概して、事後の味わいが最悪なのだ。

 酒。飲んでいる最中は確かに上機嫌、饒舌、快さが心身を満たす。が、酔いが覚めれば。飲みすぎれば鋭敏化した嗅覚によって自身を臭いが貫くし、胃の中では飲食物が反乱軍として暴れ回っている。それほど飲まずとも、少なくとも体温は極端に低くなるし、殆ど確実に悪夢に苛まれることとなる。いずれにせよ、素晴らしい心地ではない*1

 煙草。吸っているときだけが救いで、それ以外は最悪の心地だ。思考は鈍るし常に苛立つ。吸っていなければ平穏は二度と訪れない。それこそ、完全にニコチンを絶たぬ限り。

 セックス。最中は確かに快楽の虜である。しかしそれに至る工程があまりに多いし、事後も事後でやたらと手順を要する。しかも最悪なことに、性的快楽という第一目的においてさえ、セックスはそこまで強力なイニシアチブを持っていない。現代では多くの用具が開発されている。性的快楽という意味ではもはや、セックスに頼る必要は何一つ存在しない。つまり手間だけ掛かって見返りはそれほど多く貰えない。

 概してこのようなものだ。大人の嗜みというのは確かに、それ自体への魅力を持つ。が、そのために何かを犠牲にしなければならない。そしてその犠牲ほど、得られる対価は大きいものではない。さらに現代では、犠牲を払わずして見返りを得られる娯楽が多く存在する。依存対象としても最適な娯楽が。例えばゲームや映画など。故に大人の嗜みは強力な娯楽と成り得ず、数回で飽きられる。

 こうも言えよう。大人の嗜みというものは現代において、娯楽としても依存対象としても野蛮である。現代において、彼らは必要とされない。故に現代において、大人の嗜みとは社会経験や勲章でしか無い。

 平たく言えば、大人の嗜みとは現代において「私は大人です」「私はこんなに大人なことをしています、羨ましいでしょう」という自己顕示である。それを見て少年少女は憧れを抱く。

 憧れるだけで済ませておけばよかったのに。嗚呼、この世は儚い。夢はいつも簡単に崩れてしまう。ウィスキーが泥水だとは思わなかった。

 

  • では、どうして?

 だから私には分からないのだ。何故多くの人間が、あんなものに依存してしまうのか。余程健全で危険な娯楽が、この世には燦然と輝いているというのに。

*1:ただし、食事の一環として嗜む分にはこの限りではない。日本酒は鍋を際立たせるし、ワインはパスタを際立たせる

2023.01.27(残338日) 私の思想のスタンスについて

2023.01.27(残338日)

 

 

  • 私の思想のスタンスについて

 有り難いことに、このブログもコンスタントに閲覧されるようになってきた。何を目的とされているのかはいざ知らず、文章というのは概して読まれるために書かれているので、多少なりともお読みいただけているのであれば幸甚の限りである。

 ここで今一度、私のこのブログ、ひいては私の思想そのものに対するスタンスを述べておきたい。

 

  • スタンス①:無常は思想をも覆う

 基本的に、私の根底にある信条とは無常である。それは思想においても同様で、人間の思想は刻一刻と変化すると考える。

 例えば親に対する評価。幼子は親を高い確率で、殆ど100%に近い状態で、完全に肯定する。それは子が親以外の親、即ち育児形態を知らないからである。では成人したらどうだろうか。少なくとも殆どすべての人間が親を肯定することはないだろう。他者がどのような育児を経てきたか多く見聞きするし、社会的にどのような親が望ましいか教えられることすらあるだろう。一方で自身が子を持ったとき、また親への評価も変わることだろう。出産・育児の苦労を、身を以て体感することになるのだから。このように年齢を重ねるにつれ、親への評価というのは刻一刻と変化する。

 人間の思想もすべて同様である。知識や経験の蓄積によって思想は変わっていく。昨日は政治家を糾弾していたものが、今日は政治家を褒めそやしている。それは何ら不思議なことではない。

 つまり、思想は変化する。昨日言っていたことが今日異なっていたとしても、それは矛盾ではない。変化である。

 こうも言えよう。昨日のわたしと今日のわたしとは連続的でない。むしろ日々のわたしが「私」という総体を形成しているに過ぎない。この意味で、昨日のわたしと今日のわたしとの思想が異なっていたとしても、それは不自然なことではない。

 そもそも私が一貫して「私」である保証などどこにもない。睡眠を経て昨日のわたしは死んでいて、今日のわたしに生まれ変わっているのかもしれない。

 

  • スタンス②:人間とは合理性である

 一方で、私はもう一つ、信条を持つ。人間とは合理的でなければならない、というものである。

 人間は動物であり肉である。そして、人間に与えられた動物的特性とは、複雑な思考である。オオカミが優れた聴覚を持つように、ハイエナが徹底した女系社会を形成するように、ミツバチが厳格な役割分担に生きるように、人間は肥大化した脳による複雑な思考を生業とする。

 故に、人間として生を受けたものは——仮に人間として生きるのであれば——複雑な思考に人生を投じなければならない。それは即ち、合理性である。どのような局面においても人間は合理性によって事象をコントロールしなければならない。少なくとも人間において特徴的な活動——社会活動や思想構築——において、必ず合理的でなければならない。

 思想の局面でも同様である。思想は変化する。それは仕方がない。しかし、変化は合理的でなければならない。昨日はこの事実を知らなかったが、今日はこの事実を知った。これまで得た知識や経験を総合的に検討して、現状ではこの思想へと変更するのが適切であると考えた。このようでなければならない。

 

 抑圧の下で。

2023.01.26(残339日) 子という成果について

2023.01.26(残339日)

 

  • 我々とは成果である

 私の一貫した人生観として、以下のようなものがある。

 我々とは成果である。我々の肉体は最終的に消え去るのだから、我々の思念や葛藤は何ら重要ではなく、具体的な成果こそ我々を意味付けるものである。成果こそ、我々の存在意義である。そのように考えている。

 では、具体的な成果とは何か。多くのものが考えられる。が、基本的に多くの人間が残す成果はたった一つ。子である。

 

  • 子とは悲しい成果である

 動物は子を残す。子は両親の存在無くして成り立たない。両親の交わりによって発生し、両親の努力によって維持される。これはもちろん、成果である。子とは親にとっての成果なのだ。

 これは人間においても同様である。人間が結婚を経験するのも、交わるのも、家庭を持つのも、基本的に子という成果を残すための作業工程に他ならない。一匹の動物が存在意義を得る過程。

 そして悲しいことに、この成果は安易に利用されがちである。無論、結婚や出産そのものが安易なのではない。安易なのは、本人自身においてである。誰でも子が居れば存在意義を得られる。夢を諦める口実、自身を捨てる口実として、子は極めて有効に作用する。そういう意味で安易なのだ。

 私はこの意味で、結婚や育児に、ある種の悲しみを抱いている。結婚したから、子供が居るから、そうやって自分自身から目を逸らす者が在るから。

 

 今日の文章は拙い。お蔵入りだ。

2023.01.25(残340日) 今日のわたしと昨日のわたしについて

2023.01.25(残340日)

 

  • 今日のわたしと、昨日のわたし

 思うに私の人生というのは、常に今日のわたしと昨日のわたしとの対立によって発生しているのだと思う。

 朝起きれば、昨日のわたしが今日のわたしに残した数々のタスクがあり、教訓があり、そして計画がある。それに従うか、裏切るか。その攻防戦が、昨日のわたしと今日のわたしの間で繰り広げられる。

 例えば日曜日のわたし。

 起きれば、土曜日のわたしが何かを残してある。今日は寝坊してしまった。なんて日だ。明日は起きたら窓を開けて、ベッドに入らないで直ぐ顔を洗おう。今日はスマホに時間を吸い取られてしまった。Twitterは禁止。

 日曜日のわたしはそんなことなんにも気にせず、最悪な場合では完全に忘れて、流れるようにアラームを消してベッドに入って二度寝して午後一時に起きるし、TwitterYouTubeを三時間眺め続けてあっという間に夕陽と相対する。それで夜、とてつもなく後悔して、また色々と書き連ねる。それで明日のわたしに託して就寝。

 起きる。今日のわたしは昨日のわたしの忠告なんて覚えてすらいない。

 その繰り広し。エンドレス。

 しかし対立というのは毎回決まって同じ者が勝利を収めるわけではない。今日のわたしが昨日のわたしに敗北することだってある。例えば土曜日のわたしがしつこくしつこく「明日は絶対に八時に起きる」と言えば、日曜日のわたしはその圧力に耐えきれず、八時に起きることもある。あるいは土曜日のわたしが書き残した反省や発見の中で、あまりに優れて光る根深いものがあれば、日曜日のわたしも根負けして、同じ内容を心に刻んでいることもある。

 このように、私の人生というのは、今日のわたしと昨日のわたしとの対立、切磋琢磨によって作られている。昨日のわたしに出来たことが今日のわたしに出来ないととても落ち込むし、昨日のわたしに出来なかったことが今日のわたしに出来たならとても喜ぶ。あるいは昨日のわたしと今日のわたしに何か共通点が見出だせれば、それはそれで感慨深く思う。

 何だか連続性は無いけれど、それもそれで仕方ないのかな、と私は感じている。